今朝はボニー・バック 第32回

高校受験スベったら(後編の上)

ボニー・アイドル
(第11号で「原稿料よりバイト料が多くても、ぼくは断然ライターだ!」執筆)

 
 
 
15年前の3月某日、ぼくは人生2度目の公立高校入試を受けた。受験したのは、1年前と同じ地元の進学校。
受験番号は「9」だった。好きな番号というわけではなかったが、前回の「48」よりはずっとマシなような気がした。試験を受けた教室には、同じ中学の後輩の姿はなかった。受験手続きをしてくれた中学校が気をきかせてくれたのだろうか。それともその教室はぼくのような「フリーランス」が固まって試験を受ける場だったのだろうか。

いよいよ試験が始まった。1時間目はいちばん得意としていた国語だった。なんせ、前回の入試の時点で80点以上(自己採点)取っており、予備校に通っているときは、国語の授業はサボってもいいんじゃないかと本気で思っていたほどだ。しかし、試験を終えてみると、手応えはあんまり良くなかった。楽観的なぼくでも、「8割いってればマシ」といったところ。
次は、いちばん苦手な数学。序盤の計算問題を解き終え、グラフを使った2次関数の問題に差し掛かったところで、ペンが止まった。
わからないのだ。まだ半分も解いてないのに。タマキンが縮み上がっているのは、教室の暖房設備が古いからだけではない。
(これ落としたら、2年連続不合格決まりだな)
そう考えたことで肚が据わったのか、ぼくはその2次関数の問題をヒョイと通り過ぎて、次の設問に移った。今度も4つの回答欄をすべて埋めることはできそうもなかったが、最初の2つぐらいなら何とか解けそうだ。数学は終始このクレバーな作戦で押し通すことにした。ピンチに対してあれほど冷静な行動ができたのは、後にも先にもこのときだけだった。時間終了を告げるチャイムがなったとき、解答用紙の8割ほどを埋めることができた。しかも、記入したほぼすべての答えに自信があった。
数学をうまくやり過ごしたことで弾みがつき、その後の3教科に関しては特に苦戦した記憶はない。14時頃だったか、最後の「社会」が終わったときには、ぼくは合格を確信していた。
試験後、校舎裏の路地に行くと、すでに母親の迎えの車が待っていた。1年間の浪人生活が終わった喜びと試験を終えた開放感でテンションが上がったぼくは、目の前の雪だまりを思いっきり蹴り上げた。ホーキンスのブーツ(右)が弧を描いて10mほど前方の雪山に飛んでいった。
「やべえ!」
車のドアを開け、開口一番放ったぼくの言葉に母親が顔を凍らせた。
 

 

1週間後にあった合格発表は父親の車で行った。入試のときの母親と同じ、高校校舎裏に父親を残して玄関前へ向った。受験生をかきわけ、合学発表のボードを覗き込む。はたして、ぼくの受験番号「9」は、あった。
ぼくは小さくガッツポーズをとると、喜びを分かち合う同級生がいるわけでもないので、すぐにその場を後にした。
「あったっけ!」
ぼくの報告に父親はそれまで見たことがないほどの笑顔で喜んだ。家に帰ってから予備校に合格の報告の電話を入れると、向こうではソガベ先生が出た。「おお、良かったなあ、おめでとう」と祝福の言葉をかけてくれた。

念願の高校に入学することはできたが、それ以降、ぼくは勉強をして成績を上げるということを放棄してしまう。合格発表から数日後にあった入学説明会では教科書、問題集を渡され、さっそく「最初のテスト範囲は教科書の15ページまでだから予習してくるように」と宿題を出されたが、ぼくは一切手をつけなかった。進学校の生徒としては、入学前にすでに終わっていたのである。

入学式の日。式が始まるのを教室で所在なく待っていると、廊下でぼくのあだ名を呼ぶ声が聞こえてきた。同級生だった石山をはじめ、同じ中学だった友達が会いにきてくれたのだった。しばし同い年の先輩たちと再会を喜んだ。
さらに、入学式が終わり、玄関で靴を履き替えていると、今度はぼくの上の名前を呼ぶ声が。そこには、なんとずっと好きだったYさん! 隣には同じく中学の同級生だったKさんもいる。
「入学おめでとう」
あわわ。ラブレターをポストカード出した恥ずかしさと1年ぶりに会った喜びと後輩になった引け目といった感情が一気に襲ってきてパニック状態になったぼくは、Yさんと一言も話さないで前を見ずに校舎を飛び出した。あの時、玄関のドアが閉まっていたら確実に激突し、死んでいたと思う。Yさんが会いにきてくれたことが、高校生活でいちばん嬉しかった出来事、いわゆる「感動のアンビリーバボー」だ。そして、いちばん笑った「ファニーアンビリーバボー」も程なくして訪れる。

ぼくが入った高校では、1年生は入学早々、放課後に応援団の練習に参加しなければならない掟というか伝統行事がある。男だけではなく、女子もだ。
入学前に同じ高校の卒業生である兄キに聞いたところ、その練習は応援部団長の「だん、くわぁ(団歌)ーーッ」というかけ声に1年生全員が「セイヤッ!」と前略、裏山の上から呼応し、男子は学帽を、女子はスカーフを振り振り団歌や校歌を絶唱するものだという。死にたくなるほどダサいのはもちろんだが、何より恐ろしいのは、2、3年生率いる応援団のシゴキ。進学校とは思えないほど荒っぽく、女子の中には泣き出すヤツもいるほどだという。妙な修業のない男塾のような雰囲気か。まあ、名門といわれている学校にありがちな、一種の通過儀礼みたいなもんだろう。ちなみに、入学前の宿題には、練習で歌う5曲ほどの応援歌を暗記してくるという課題も含まれていた。

で、いよいよ最初の練習の日を迎えた。放課後の教室は、いつ恐ろしい応援部員が迎えにくるか、緊張で静まり返っていた。
ズカ、ズカ、ズカ! と靴音を響かせながら長ランに身を包んだ3年生と思われる男子生徒——大川興行総裁に似ていた——が向ってくるのが廊下側の窓ガラスから見えた。教壇側の引き戸から侵入しようとしている。この人はたしか応援部の団長だ。
団長が最初考えていたのは、「ガラッ!」と荒々しく引き戸を開けるや、間髪入れず「押忍!」のかけ声で新入生に気合いを入れ、その勢いで1年坊主を練習場の裏山に連行、だったのだろう。しかし、悲劇は訪れた。引き戸の立て付けが悪すぎたのだ。教室になかなかに入れないでいる。団長は威厳や怖いといった役づくりを放棄して、引き戸を押したり引いたりに必死だ。
プーッ。思わず吹き出してしまった。向こうの声が聞こえないのもサイレントのコメディ映画のようだ。「引き戸vs団長」は2分も続いただろうか。体を斜めにしてなんとか通れるぐらいの隙間を開け、団長は肩で息をしながら教室に入ってきた。
これが高校3年間でいちばん面白かった出来事である。ピークを入学早々に迎えてしまったぼくは、この後、自分史の中で「失われた3年」と呼んでいる冬の時代に突入する。

中学浪人をした生徒が楽しい高校3年間を遅れるかは、最初のホームルームで自己紹介した時点で決まってしまう。つまり、クラスメートに自分が年上であることを打ち明けることができるかどうか。直前まで悩んだ末、ぼくがとった行動は、“黙っている”だった。
40人ほどいるクラスメートの中には、同じ中学の後輩もいる。ぼくが1コ上のことなんて周知の事実だろう。しかし、だからこそ自分の口から言わなければいけなかったのだ。自分だけではなく、クラスメートのためにも。特に、中学の後輩には見えないところで気を使わせたと思う。
こうしてチキン野郎は、素性を明かさないまま、1コ下の同級生たちを「さん付け」や「君付け」、時には呼び捨てで呼び(呼ばれながら)、かくれんぼのミソっかすのような存在として高校生活を過ごすことになる。

授業中はただただ時間が早く過ぎることを願った。昼休みすらなくてもいいと思った。当然、こんな態度では1コ年上じゃなくても進学校では浮いてしまう。数学教師のKは、早々にぼくを落ちこぼれとして扱うことに決めたようで、生徒に問題を当てるとき、普段は将棋で言うところの「飛車」の動きをするのに、ぼくの席まで来ると急に動きが「桂馬」に変わった。
毎日、6時間の授業をやりすごし、帰りのホームルームが終わると、誰よりも早く校舎を飛び出した。おそらく、ぼくが作った、チャイムが鳴ってから校門を駆け抜けるまでのタイムは未だに破られていないだろう。ただ、家に帰ったところで、16時半からの「古畑任三郎」の再放送を見たあとは何もやることがなかった——。
(続く)

 
 
 
-ヒビレポ 2014年2月5日号-

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