杉江松恋の、回り道から飛んでいく 第4回


自分がなぜ歩くのか、思い出した

杉江松恋
(第14号で「伊勢街道でしょう!」を執筆)

 
 
 
 今回はちょっとだけ父親の話をしたい。
 私の父親は東京で私立高校の教師をしていた。といっても新卒での採用ではなかったらしく、20代後半という半端な年齢で高校に就職している。どうやら大学を卒業した後で何か事業をやっていたらしいのである。
 大学時代にも謎が多い。交通事故で長期入院していた時期があるのは知っていたが、その前に大学を休学していたことはだいぶ後でわかった。
 何をしていたのかというと、陸上自衛隊に入っていたのだ。
 本棚を整理していたら自衛隊時代の手帳と、父がナパーム砲のようなものを抱えている写真が出てきてびっくりしたことがある。たしか、もう高校生ぐらいになっていたのだけど、そんな年齢まで自分の父親が自衛隊出身者だと知らなかった、ということでまたびっくりした。
 母親によると、本人は学資稼ぎと運転免許取得のためだった、と言っていたという。それが韜晦なのかどうかは、よくわからない。なぜそれを息子にずっと言わずにいたのか、ということもわからない。今よりもずっと自衛隊に対する風当たりが強い時代だった。もしかするとそうしたことも影響していたのかもしれない。後に私が就職し、市谷駐屯地近くの会社に勤め始めたときには、「俺もあのへんでラッパを吹いていたんだ」と懐かしそうに語っていたので、どこかで明かしてもいいという心境に変わったのだろう。
 

 

 その父親に連れられて、よく旅行をした。
 旅行というと楽しいイメージがあるが、小学校低学年のころはそれが正直苦痛であった。なにしろ父親の選ぶ行く先は子供が絶対に喜ばないような場所なのである。遊園地とか動物園とか、そういう楽しい施設を訪れたことはほとんどなく、山寺の奥の院まで歩いたり、半分藪に埋まっているような旧街道を踏破したり、というのが父の旅行であった。
 しかも寺社を訪れるとしゃぶり尽くすようにすべてを観て回る。印判を押してもらってさあ次、というような訪ね方ではないのである。
 さらに、その場所の由来や縁起などを事前に詳しく調べていて、息子にそれを教えようとする。いや、教えてくれるのはいいのだが、何度も書くようにこちらは小学生なのである。本当なら神社ではなくデパート屋上のヒーローショーとか、サファリパークとかに連れて行ってもらったほうがいいのである(父親はある時期に、自分は車の運転に向いていないと宣言して手放してしまった。したがって私は幼少期、父親にドライブに連れて行ってもらった記憶というのがまったくない)。
 あまつさえ父親は、私がその知識を吸収していないと不機嫌になるのである。さすがに怒りはしないが、噛んで含めるようにもう一度同じことを一から教えるようとするのである。つまり、覚えるまでは離してくれないのだ。父親と二人旅だから逃げ場もない。それは緊張の連続であった。

 父親の関心は、中世以降の日本と諸外国との関係に向けられていた。最初は切支丹のことを調べていて、ある時期からそれが豊臣秀吉以降の朝鮮半島との外交史に転じていったように思う。そういう変化は、おそらく旅行の中で生まれたものだろう。
 父は上智大学文学部英文科の出身だったのだが、それで最初は切支丹に関心を持ったのではないかと睨んでいる。遠藤周作の小説も愛読していた。
 切支丹史の中に日本二十六聖人の殉教という事件がある。1587(慶長元)年に豊臣秀吉によって引き起こされたもので、26人の信者が大坂から長崎までを徒歩で移動させられ、その地で処刑された。現在も長崎市にその碑が残っているが、九州に入ってから彼らが歩いたのが、小倉〜長崎間の長崎街道である。父親は足繁くそこに通い、関連する史跡などを訪ねていたようだ。偶然ではあるが母親の郷里が長崎街道の宿場である嬉野(佐賀県嬉野市)で、私も一家でよく里帰りしていたのである。
 長崎街道はまた、朝鮮出兵のときに半島から連れて来られた陶工の集落があった場所でもある。伊万里を始めとして、北九州一帯には名の知れた窯が多い。父親はまた、陶器見物も趣味にしていたのである。その関連でもしかすると朝鮮半島に関心を持ち始めたのではないか。切支丹〜長崎街道〜朝鮮半島というつながりだと私は推測している。

 さて、子供のころにさんざん英才教育を施された結果どうなったかというと、私もまた寺社巡りが好きで、歩く旅行が好きという人間に育ったのである。不思議なもので、あれだけ歩くことを強制されたのだから逆に嫌いになってもいいようなものだが、そうはならなかった。あの清浄な感じが好きになってしまったのだろう。

 こういう記憶がある。
 子供のころ、寝台特急で東京から博多まで移動した。たぶん、さくらかはやぶさだったのではないか。
 寝苦しいB寝台で深夜に目を覚まし、水を飲むために通路へと降りた。
 寝台特急は通路の片側に大きな窓があり、その下に椅子が収納されている。それを下ろして夜の街をぼんやりと眺めていた。
 今よりも夜の街は暗く、オレンジ色に見える街灯によって線路の周辺だけが照らし出されている。列車のランプが放つ光が明りの消えた人家の窓に反射していくのだが、中にはぽつりぽつりと電気の点いた窓がある。その中ではまだ誰かが起きているのだ。
 そうした光景を見ながらふと、自分がこの町を歩くことは永遠にないのかもしれない、と思った。
 そして、この町の住人たちに会うことは絶対にないのだろう、とも。
 同じ日本という国に住んでいながら、この町の人々と自分の人生とが交差することはおそらくないだろう。ということは、双方にとって、相手は存在しないも同様の人間なのではないか。
 そう考えて、途方もなくさみしい気持ちになった。巨大な世界の中に自分一人が放り出されたような感覚である。
 歩いてみたい。
 そう思った。
 別にその町のひとびとと触れ合いたいわけではない。ただ、歩いてみたい。
 自分が知らない町があるということがひどく孤独で辛いことのように感じる。だから、そこを実際に歩いてみたいのである。

 この、世界の中に一人ぼっち、という感覚は自分にとってとても重要なものだという気がしている。人間相互は決して触れ合えず、真の意味で理解し合える瞬間も決して来ない。ただお互いにお互いを勘違いしたまま、相手を理解したような気持ちだけを後生大事に抱えて生きていくのだろう。そういった思いが、自分が実際に生きたり、創作物を読んだりする上では絶対に外せないものとしてある。
 それを身体のレベルで確認するための行為が、歩くということなのである。
『東海道でしょう!』で歩き旅を復活させてみてやっと気がついた。
 そうだ、歩くのだ。
 

 
 
 
 
似顔イラスト/日高トモキチ
 
 
 
-ヒビレポ 2014年1月24日号-

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