旧宅探訪  第7回

高円寺 2DKのマンション

 
下関マグロ(第14号で「僕の八〇年代エロ本仕事」を執筆)
 
 
 
 
 
岡本くんと一緒に北尾トロの部屋に行ったのは1987年の春だった。岡本くんというのは、僕の中学、高校の同級生で、東京に出てきたときに、彼の部屋に泊めてもらった。岡本くんは子供の頃からバイオリンを習っていて、中学、高校の頃はギターなども弾き、一緒にバンドのようなことをやっていた。その後、彼は一浪して法政大学に入学し、一年留年して社会人となった。一浪して一年留年というのは、僕と同じで、社会に出るタイミングも同じだったというわけだ。
そして、彼は普通の会社員になり、プログラマーとして働いていた。そして、僕はこれまでも書いた通り、出版社に勤務後、フリーランスのライターになった。やっと、仕事も安定した頃、僕は北尾トロとも岡本くんともよく遊んでいたのだけれど、ごく自然な流れで3人で遊ぶこもとあった。

岡本くんは、大学時代はバンドをやっていた。一度、ライブを見に行ったことがあるが、けっこう本格的なロックバンドだった。岡本くんはギターを弾いていて、高校のときとは比べ物にならないほどうまかった。2人でいるとき、僕はいろいろな曲を岡本くんにリクエストをした。たいていのものは、すぐに弾くことができた。この日も、北尾トロの部屋にあったフォークギターで岡本くんがジミ・ヘンドリックスの「パープル・へイズ」を弾き、歌った。これに北尾トロはウケていた。
 

 

3人で会ううちに自然にバンドをやろうかという話になった。バンドといっても、ごく気軽にやろうということで、バンドの名前は「脳天気商会」とした。岡本くんはギター、僕がベース、ドラムは打ち込みで、北尾トロがヴォーカル兼パーカッション。パーカッションはパッドを叩くと音が出るという楽器を使った。北尾トロがセンター、トロの左側が岡本くん、右側が僕。タナベビルは、楽器置き場と簡単な打ち合わせなどをやる場所として、3人が分割で家賃を支払うこととなった。ただし、僕と北尾トロは原稿を書いたりする場所として使うので、多めに払った。

バンドの合言葉は、20代のうちにライブをやろうというものだった。僕たちは29歳になっていたのだ。

そして、仕事関係の道具は残し、家財道具などはスカイコート荻窪第3に運んだ。このあたりから、僕自身の住まいに関することは、まったくおかしくなっていく。89年の10月に僕の一冊目の単行本が出た。「知的メモ術入門」という本で、名義は本名の増田剛己だ。

そして、その年の12月、僕は衝動的に高円寺に引っ越してしまう。理由はよく思い出せない。たぶん、それまで住んでいた場所があまりにも何もない場所だったので、商店街を求めて高円寺に引っ越そうと思ったのかもしれない。また、当時はマウンテンバイクで移動していたので、もう少し都心に近いほうがいいと思ったのかもしれない。今となっては、当時の気持ちを思い出せない。広さは2DK。間取りなどはよく覚えていない。ただ、高円寺駅からの道順はよく覚えている。
 

高円寺駅北口から中通り商店街を行き、馬橋公園を通り過ぎて早稲田通りに出たあたり。

 

 
早稲田通り沿いにあった。今はもうない。建物の名前も覚えていない。家賃は13万円。北尾トロからも岡本くんからも、なんでそんなところへ引っ越すんだといわれるんだけれど、自分でもよくわからなかった。

引越してすぐに近所の新しいい床屋にいける人もいるかもしれないが、僕はだめで、高円寺に引っ越しても荻窪の床屋に通っていた。年が明けた3月か4月ごろ、床屋のおやじが僕の頭を刈りながら「今だから言うけどね」と切り出した。「去年の12月くらいにここにね、10円玉くらいのハゲがあったんですよ」と、後頭部をさして言う。「今はもうすっかりよくなったから言えるんですけどね」だそうだ。そのころ、なにしてたんだっけって思い出したら、高円寺の引越しの時期だった。なんだか精神的に不安定だったのかなぁ。まったく自覚症状はないんだけどね。

しかし、この高円寺の2DKのマンションは半年しか住んでいない。次に越したのは、なんと茅ヶ崎である。まったく、僕はおかしな引越しを繰り返す。

こちらは、北尾トロの動画です。

 

 
 
 
 
動画撮影/北尾トロ  似顔イラスト/日高トモキチ
 
 
 
-ヒビレポ 2014年2月16日号-

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