今朝はボニー・バック 第36回

高校受験スベったら(完結編)

ボニー・アイドル
(第11号で「原稿料よりバイト料が多くても、ぼくは断然ライターだ!」執筆)

 
 
 
何度か、高校時代の唯一の楽しみは下校後に自宅で「古畑任三郎」の再放送を見ることと書いたが、いくらなんでもそればかりをしていたわけではない。だいぶ前、ヒビレポの連載第10回目「ビデオのこと」にも書いたように、この頃ぼくはレンタルビデオ店から借りてきたアダルトビデオを自分の部屋の2台のビデオデッキを使って片っ端からダビングするという行為に夢中になっていた。
その頃人気だったAV女優の代表格と言えば、川島和津実だろうか。整った童顔のルックスに似合わぬ巨乳が売りだった。本当かアングルかはさておき、AVデビューの理由——彼の借金を返すため——というのも、清純派の彼女のイメージをさらに増幅させた。
男性読者ならご存知かと思うが、AVは「女優モノ」と「企画モノ」に分類される。女優モノとは、特定のメーカーと専属契約した女優が一人で出演する作品で、「単体モノ」とも呼ばれている。一方、「企画モノ」とは「女子高生」や「ナンパ」など、ある企画の括りのもと、複数の女優(ほとんど「素人」という体裁になっていた)が出演するオムバス作品。ソフト・オン・デマンドの登場によって、その後は大手メーカーも企画モノを大量リリースするようになるが、当時は「女優モノ=大手会社」、「企画モノ=インディーズ会社」という認識が一般的だった。
川島和津実が女優モノの代表なら、企画モノの代表は中根ゆまだった。茶髪のショートカットにわがままそうなアーモンド型の瞳、小麦色に日焼けしたEカップの体は、90年代後半〜00年代前半のギャル文化を体現していた。あれよあれよと人気の出た彼女は企画モノだけではなく単体モノへの出演も果たすようになる。ぼくはそんな彼女のことを友人たちに、当時インディーズながら200万枚のアルバムセールスを記録したバンドにたとえて「AV界のモンゴル800」と紹介した。
 

 

「AVセレクション」作りだけでなく、生テープ(VHS)に録画したテレビ番組の資料作りも日課として行っていた。テープにどんな番組が何分間録画されているかを早送りで再生しながらパソコンに入力していく作業だ。例えば、「79」と番号が振られたテープには次のような番組が入っている。
電波少年 パンヤオ 4min
徹子の部屋 三船敏郎 22min
トゥナイトⅡ 98年AV業界を振り返る 10min
ぐるナイ 矢部小林幸子前座 6min
トゥナイトⅡ 99年写真集オブザイヤー 3min
世界まるみえ 52min
NNNニューススポット 2min
ABS さきがけニュース 2min
TVタックル 緊急企画日本の景気を考える 82min
世界の車窓から 3min
新春かくし芸大会 48min
電波少年 なすび、パンヤオ、Rマニア 100min
映画「バカヤロー」 14min
えらい人グランプリ 松井、ソーサ対談 1min
ぼくは基本的にはだらしない性格だが、自分の持ち物に関しては几帳面なところがある。資料には番組が終わったあとの「カラーバー、砂嵐 5min」とか「ダビング失敗の砂嵐 110min」も表記している。丁寧な仕事だ。
現物のテープは今でも実家の押し入れに眠っており、テレビ番組を録画したテープが約150本、映画をダビングしたテープが100本ぐらいあるはずだ。何回も重ね録りしているテープもあるのでビデオデッキを購入したばかりの頃の番組は残されていないが、「バズーカー高田純次 1min」「ワールドプロレス アントニオ猪木スペシャル 天龍、ムタ他 111min」といった古い録画も残っている。
この資料づくりは、録画されている番組の尺にもよるが、1日3本ぐらいが限界だった。毎日ノルマを決めて作業に励んだ。
 

 
高3の冬。同学年の生徒が進路相談や受験勉強に打ち込んでいる最中、ぼくは図書館に入り浸って太宰治全集を借りては読むという日々を過ごしていた。
中学浪人してまで進学校に入ったものの、大学には進まないという決断をしたのだ。その理由は、早く社会に出たかったから。「大学なんか行かなくても、現時点でも十分世間に認められるだけの力があるはず」。何の根拠もなかったが、そう信じて疑わなかった。将来いい会社に入るための学歴や華やかな学生生活にはまったく興味がなかった。とてつもなく長い助走期間。そんな風に大学4年間を捉えていた。たぶん、その根底には中学浪人したことで同い年の連中より出遅れたという焦りもあったのだろう。

ただ、一時、周りの生徒の受験ムードに流されたのか「受験だけならしてもいい」という気持ちになったことはある。普段のテストは赤点ばっかりだったが、腐っても進学校の生徒である。普通の高校に通う生徒よりはいくらかマシなはずだ。いっちょ、「難関」「名門」と言われている大学入試に合格して、教師の鼻を明かしてやろう。
白羽の立てたのは、ビートたけしが中退したことで有名なM大学だった。ここならネームバリューもあるし、受験する学部の中には入試科目が得意な文系のみというところもある。合格も夢ではない。
受験を決意したその日の放課後、進路相談室にセンター試験の申し込み用紙を貰いに行くと、担当の教師は次のように言い放った。
「申し込み期限、2週間以上前に過ぎたんだけど」

以前にも増して図書館に通う頻度が多くなった。毎日のように太宰全集を借りていくぼくに、司書の先生が「何か悩んでいることあるの?」と声をかけてきたこともあった。いやいや、単に太宰治にハマっただけです。それに、ぼくには身近に太宰治の作品を語り合える格好の「読友」(読書の友)がいた。ばあちゃんである。
夕方、晩ご飯の用意をしているばあちゃんと「津軽」や「お伽草子」の感想を語り合う時間が好きだった。おそらく、ばあちゃんが太宰治を読んだのは数十年前だろう。それにも関わらず、ほとんどの作品の内容を正確に記憶していた。特に「津軽」の最終章——太宰治が養母たけと再会し、自分が他の兄弟に似ず粗野な性格に育ったのはこの人の影響だったことに気づくシーン——の感想を感慨深げに話していた姿が印象に残っている。いつかばあちゃんと「斜陽館」を訪ねる旅行ができたら。そんな望みを叶える前に、ばあちゃんはぼくの高校卒業を見届けるように3月某日、急に逝ってしまった。

高校を卒業したときのことはほとんど覚えていない。ヒビレポ第15回にも書いたように、その後ぼくは松竹芸能東京養成所に入り、川越で一人暮らしをしながら芸人の卵としての道を歩むことになる。
さて、中学浪人から高校卒業までを振り返った連載もこれでお終いである。この原稿がアップされる頃には高校入試の合格発表は終わっているだろうか。
希望する高校に現役で合格することができた人は、おめでとう。ぼくが言えることは他に何もない。
一方、ぼくと同じく受験に落ちてしまった人。周りに私立高が少ないといった様々な要因があるかと思うが、二次試験に合格した学校でも楽しい高校生活が送れると思ったのなら、そちらを選んでもいいのではないだろうか。中学浪人は浪人生活よりも、1年後合格した後に待っている高校3年間の方がずっとツラいからだ。
それでも、ぼくと同じくどうしても諦めきれない人、そしてこの春、2年がかりで念願の学校へ入学が決まった人に最後にアドバイス。中学浪人が報われるか否かは、高校に入学してすぐの自己紹介で決まる。同級生たちには臆せずこう宣言すべきだ。
「おっす。オレ、ボニー。この高校には中学浪人して入ったから実は年は1コ上なんだ。わかったんなら、とっととパン買ってこい!」
(完)
 
 
 
-ヒビレポ 2014年3月5日号-

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