ちょっとプアンなタイ散歩 〜新婚旅行編〜 第10回


ふたりの背中(3)

吉野 歩
(第13号で「選挙事務所に混じる」執筆)
 
 
 
<前回までのあらすじ>
 夫となった“相方”と旧友ヌイ。二人に仲良くなってほしいと願う私は「ロイクラトン祭り」で彼らを引き合わせる。しかし、バンコク名物・大渋滞の洗礼を受けた相方は、ヌイのやり方に猛反発。新婚旅行は、タイなんかにしなけりゃよかった?! 

 
 
■ トゥック、トゥック、タッパー!!

 悪夢の「ロイクラトン渋滞事件」から数日後、名誉挽回のチャンスが訪れた。ムエタイである。本日は相方様をムエタイ道場にお連れし、立ち技世界最強と言われた格闘技術を体験していただくのだ。
 バンコクで3本の指に入る大スタジアムを持っていながらも、日本のガイドブックには載っていない大変レアな場所。その名も「ランシット国際キックボクシングスタジアム」である。
 仕事で忙しい勤め人のヌイが、時間の合間を縫って選定&予約してくれた道場だ。しかも今日は、会社を休んでわざわざ同行してくれるという。さぁ相方よ、思う存分楽しみたまえ。そして彼女に大いに感謝し、日泰友好条約を結ぶがよい。
 
 レッスンは3時間。他の練習生はアメリカ人の男の子一人しかいなかったため、相方はみっちりマンツーマンの特訓が受けられることになった。しかし、平日の昼間とあって意外とのどかだ。

とりあえずタイヤの上で、30分間跳び続けるよう命じられる相方。
そして、その様子を池の鯉を眺めるように待つトレーナーたち

 

 

 しばらくすると、
 「トゥック、トゥック、タッパー!」
 トレーナーの鋭い声。腋を閉めて上目遣いで拳を突き出す。さすが本場では独特の掛け声があるもんだなぁと感心したところ、単にフックとアッパーが訛ったものであった。
 しかし見よ、昨日までやや不機嫌だった相方の顔に生気が蘇ってきているぞ。呼吸を合わせて、トゥック、トゥック、タッパー! 言葉や思考ではなく身体の流れを合わせるのだ。額に汗がにじみ、動きについていくだけで精一杯。そんな中、疲労に反比例して輝きを増していく眼光。
 いや〜ん、かっこいいぃぃ。相方のセクシィさに耐え切れず、トイレへ駆け込んだ。決して怪しい行為をするためではないし尿意があったわけでもないが、とりあえず一呼吸置きたかったのだ。そういうときないですか? 頭が混乱すると一旦煙草を吸ってみるとか、近所を一周してみるとかそんな感じ。落ち着かないのです。

 少し席を外して戻ると、休憩に入った相方とヌイが談笑している。身体がほぐれると、心もほぐれるんだなぁ。おっと、こっちは見なくていい。二人で親睦を深めたまえ。
 

 
 私は場内には戻らず、今度は外を散歩してくることにした。
 
 
■ 一人暮らしOL、タイの晩御飯

 ムエタイが終わり、一同はそこから車で20分ほどのヌイ宅へ。「フラット」だと聞いてどんな住まいかと想像していたが、彼女の家はまさに団地街。店や学校などがあるわけでもないので、乾いた土の中から白い蟻塚がにょっきり生えたように見える。一人暮らしのOLヌイは、「散らかっているから」と小走りで階段を駆け上がると、3階の一番手前のドアでうつむきながら鍵を開けた。
 初めてのタイ家庭訪問。クーラーがないせいだろうか。壁や絨毯、棚やテレビにいたるまで、すべての調度品が重厚な湿気を帯びている。ジメっというかドスンというか。しかし不快ではない。カラフルな家具や、壁に貼られたたくさんの写真たちが重苦しさを吹き飛ばしてくれるから。甘いマスクの男(今人気の歌手らしい)が微笑む特大ポスターと国王の肖像が、頭上の棚でイケメン頂上決戦を繰り広げている。

 さて、そっからだ。ヌイの態度が豹変したのは。どんなときでもマイペースを崩さなかった彼女が、大急ぎで服を着替え、米を研ぎ始め、オルゴール人形のようにくるくる動く。「おなか空いたでしょう? 今作るから、ちょっとだけ待っててね」「先にこれ食べてる?」 まるで実家の母ちゃんである。
 

 
「んもー、こんなところまで撮るの?」
 苦笑しつつも、ちゃんとシャッターを切るまで待っていてくれる。スーツでキメキメもいいけれど、私は、こっちの顔のほうがずっと好きだ。疲れてファンデーションも剥げているけど、眩しいなぁ。彼女には今、恋人がいると聞いたが、その彼もこんな姿を好ましく眺めているんじゃないだろうか。

 次第に、辛いような酸っぱいような食欲をそそる香りが充満してきた。トムヤムクンだ。相方はペットボトルを股間に当ててうれしそう。機嫌がよいときの癖だ。大根やトイレットペーパーの芯など、円柱型のものは何でも股間に当て、男性器と称して私に披露する。パブリックな場所や私以外の人間がいるところではやらないので、この空間を「親しみの持てる場所」として認識した証といえよう。
 
 私も踊りだしたい気分である。我々は待ちきれずに台所まで様子を伺いに行った。驚くべきことに、台所はベランダの外にあった。トイレ兼シャワー室を含めた水周りは、この狭いスペースに寄せ集められていたのである。下はむき出しのコンクリートなので、外用サンダルを履いてトイレに入っていると、台所の排水が溝を伝って流れ込んでくる。窓らしき部分には、ガラスではなく金網がひっかけてあった。
 コンロの脇には、プロパンのボンベが立てかけてある。そのコックをひねり、マッチで点火する。「ごめんね、もう少しだから」彼女ははにかんだ。
 

 
 いっただきまーす! 旨い旨い、旨いの嵐到来! 

 私たちは、時間の許す限り色々な話をした。こんなとき盛り上がるのは、やっぱり恋の話でしょう。
 ヌイには、「ヌン」という彼氏がいて、現在出家中らしい。ヌンというのは数字の1を表す言葉だから、日本人だと「一郎」的なポジションだろう。この部屋もはじめ二人で住んでいたが、彼が寺に住まうことになったので、ヌイが一人で残っているんだそうな。
 ヌイは相方の名を呼んで、言った。「アユミには、私の結婚式を撮影してもらうことになってるんだ。だから今度は、ウチの実家に一緒に遊びに来てね。」
 タイの北部、「ナーン」という町だ。緯度はチェンマイと同じくらいか。私と相方が「ナーン」と正確に発音するためには、なぜか下あごを志村けんの“アイーン” の形にしなければならなかった。ヌイは笑い転げながら、何度も私たちにナーンを連呼させた。
 
 
■ 二つの背中

 9時を回った。また渋滞で相方の機嫌を損ねたら元も子もないので、帰り支度を始める。するとヌイが「こっちへ来て」と私の手をとり、隣の部屋へ引いていった。寝室。太陽のように笑った彼女が指差すほうを見ると、そこには大きく引き伸ばされた1枚の写真が、額に入れて飾ってあった。
 

 
 見覚えがあるなんてもんじゃない。彼女と出合ってまだ間もないころに私が撮ったポートレートだった。まだ二十歳そこそこだった。ホテルの椅子の上にあぐらをかいて、窓際で撮ったんだっけ。
 後からやってきた相方がおお!と感嘆の声を挙げ、「よかったねぇ、よかったねぇ」と、私の背中を叩く。今日は楽しいことがいろいろあっただろうに、このときが一番うれしそうだった。
 

 
 間違っても観光地にはならない、外国人はおろか、よそに住んでるタイ人もわざわざ訪れることはなさそうな普通の町である。立派な舗装道路もあるのに車も通らないので、ヌイがそこらを流していたバイクの兄ちゃんを捕まえ、タクシーを呼びに行くよう頼んでくれた。
 夜独特の静けさの中、管理人さんたちが見ているテレビの音だけが響く。私は野良犬を追いかけて道を渡った。あいにく犬は見失ってしまったのだが、戻ってくるとヌイと相方が顔を見合わせて会話している。どうやら僧侶のお辞儀のやり方を教わっているらしかった。オレンジ色のナトリウム灯に照らされた、二つの背中。

 ああ、私はずっとこれを見たかったのかもしれない。彼らと私を隔てるこの道路を、もう超えなくてもいいんじゃないかとさえ思った。奇妙な感覚だった。
 どうしてだろう。それは旅が終わった今でも分からないのだ。分からないことを分からないまま慈しむ権利もまた、私たちにはあるよね。きっと。
 
 帰りのタクシーの中で、相方は「いい一日だった」と言った。私は急激に眠くなった。

(続く)

 
 
 
-ヒビレポ 2014年3月6日号-

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