月に吠える的日記@新宿ゴールデン街 第2回

 

泣きたい女

 

コエヌマカズユキ(第4号で「デスマッチ・ブルース」執筆)

 

「お勧めの泣ける本があったら教えて」
 深夜2時過ぎにふらりと入ってきた若い女は、カウンター席にある本棚を眺めながら、そう言った。バー「月に吠える」は、お店のあちこちに本を並べており、貸し出し自由なのが一つの売りである。女は、メニューに書いてある「本の貸し出し無料」という文言を見て、冒頭のセリフを口にしたのだった。
「泣ける本ですか?」
 僕は言った。店内にほかに客はいなかった。終電もとうに過ぎた平日の2時過ぎに、新規の客は滅多にこない。ちょうど閉店にしようとしていたところ、「一杯だけ飲ませて」と女がやって来たのだった。閉店間際にお客さんがやって来たとき、もう看板ですから、と断ることもある。だが、そうしなかった。20代前半に見えるその女が、モデルのように美人だったからだ。
「そう、泣ける本。泣きたいのよ」
 女はジン・トニックを口に運び、やや疲れたまなざしを僕に向ける。キャミソールから胸元が覗いているのを見ないふりして、僕は本棚から数冊の本を取り出した。
「山田宗樹の『嫌われ松子の一生』、これはすごく切なくて泣けますよ。映画よりもずっと切なかった。小川洋子の『博士の愛した数式』や、本田靖春の『誘拐』もグッときますし、上原隆のノンフィクション・コラムも胸に響くものがあります」
 女は僕が取り出した数冊の本を受け取った。
「これ、全部借りていい?」
「全部ですか?」
 僕は一瞬戸惑った。本を貸し出す際は、図書ノートに名前と連絡先を書いてもらっているのだが、実は返ってくる確率はかなり低い。だが、ケチくさいことは言いたくなかったので、僕はうなずいた。
「いいですよ」
「ありがとう」
 女はそれっきり黙った。
「お母さん、死んでたのよ」
「えっ?」
「久しぶりに実家に帰ったの。そうしたら、全然違う人が住んでたの。どうしようって思って、ああ、市役所だって思って、市役所に行って住民票を取ったら、お母さん、死亡ってなってた。もう2年近く前に死んじゃってたことが分かったの」
 女は独り言のように言葉を続けた。
「泣けないの、でも。お母さんが死んだって知っても、泣けないの。何でだろう。あのババアのこと、ずっと嫌いだったの。だから、泣かなくても別に普通なんだけど、でも、私は泣くと思ったの。泣かない自分が、何でなのか分からないのよ」
 女は淡々と、片親だという生い立ちや、16歳の頃に家出をして故郷を捨てたことや、風俗の世界で身を立ててきたことや、自分を探しに東京に来た母親を殴り倒し顔を踏みつけたことなどを独白した。
「泣けるかな、この本を読んで。泣けるといいな。ねえ、そう言えば、マスターは一番最近泣いたのいつ?」
 急に聞かれて戸惑った。僕は最近、いつ泣いたのだろう? 少なくとも今年は泣いていないし、去年も泣いた覚えはない。一昨年はどうだろう……。
「覚えてないの? 本当に?」
 女の言葉に、正直にうなずく。女は笑って、ジン・トニックを飲み干すと席を立った。香水の残り香がする中、カウンターには空のグラスと、手つかずのミックスナッツと、僕が勧めた本が置かれていた。

<先週の売り上げ>
9月24日(月)15,200円
9月25日(火)1,900円
9月26日(水)5,400円
9月27日(木)20,200円
9月28日(金)41,350円
9月29日(土)19,900円

合計103,950円

–ヒビレポ 2012年10月12日号–

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