買ったなら読め! 第4回

言い切る強さに脱帽

 
海江田哲朗
(第12号で「劇団カクスコ 11年後のカーテンコール」執筆)
 
 
 
 つくづく思う。やめときゃよかった。『合本 俳句歳時記 第三版』(角川書店編)。ページをめくれどめくれど、ぜんぜん頭に入ってこない。だいたいさ、カバーが寒々しいんだよ。一面の枯れすすきに富士山て。色調もどんより暗い。読む気を削ぐにもほどがある。この反省が生かされてか、最新の第四版は赤やピンクのきらびやかな装いとなっている。

 序章には、こう記されている。
〈「歳時記は日本人の感覚のインデックス(索引)である」と詩人寺田寅彦は言った。季語には日本の風土に生きてきた日本人の生活の知恵が凝縮されている。(中略)多くの俳人によって新季語の創出・発見がなされ、芭蕉時代には千に満たなかった季語が、今日ではその百倍近くとなっている〉
 月日が流れ、時代が変わり、季語もまた更新されてきたということだ。


 
 季節の配列は、春・夏・秋・冬・新年の順。それぞれ、時候・天文・地理・生活・行事・動物・植物のジャンル別に、季語とその解説、例句が掲載されている。例として、春の季語からふたつ抜き書きする。

朝寝(あさね)
 暑くなく寒くなく、春の朝の寝心地は格別である。十分熟睡してもなお寝床に未練が残り、うつらうつらとつい寝過してしまう。また、寝足りて朝の快い空気に触れる気持ちもなんともいえない。
みちのくの旅長かりし朝寝かな 深川正一郎
長崎は汽笛の多き朝寝かな 車谷弘
※ほか四句は省略。

花疲れ(はなづかれ)
 花見は疲れる。人手や陽気のせいもあろう。家に帰り着いて、しばらくは着替えもせずに座り込むことが多い。俳句独特の言葉である。
土手につく花見疲れの片手かな 久保より江
花疲れ膝にこぼせる五色豆 斎藤朗笛
女湯の更けし桶音花疲れ 堤俳一佳
※ほか五句は省略。

 朝寝なんて、季節を問わず気持ちいいものだが、春の季語なのね。「いや、朝寝は冬がサイコーではないか」と主張する人がいてもよさそうだ。いったい誰がどうやって決めるのだろう。現代俳句協会、あるいはそこから分派した俳人協会か。ほんの軽い気持ちで現代俳句協会に電話取材してみた。

――『俳句歳時記』を読んで疑問に思ったんですが、これは春、これは夏の季語だと決めるのはどうやっているんですか?
「昔の方々が使い、それで決まっているものですのでね」
――しきたりのようなもの。
「ええ、そのへんは迷いなく」
――僕は、冬の朝寝も捨てがたいと思うんですよ。
「フフッ、そうかもしれませんが、あの有名な『春眠暁を覚えず』って詩がありますでしょ? 当協会ではそれに関連付けて、朝寝は春の季語だとコメントしています」
――なるほど、そうっすねえ。ところで、新しい季語の処遇をどうするか話し合う場はあるんですか?
「どうなんでしょう。取り立てて、そういう話し合いの場があるとは聞いていません」

 突然の電話にもかかわらず、現代俳句協会の女性は親切に教えてくれた。

 僕が面白いなぁと感じたのは、言い切る強さだ。花疲れでは「花見は疲れる」と断言。「家に帰り着いて、しばらくは着替えもせずに座り込むことが多い」と具体的な描写まである。それって極めて個人的な感覚なのではと思うのだが、そんなのお構いなしだ。一方、全編にわたり随所で「なんとなく」「なんともいえない」といった表現が連発される。五・七・五から成り、世界最短の定型詩とされる俳句は、十七音から広がる世界を感じてもらうのが肝だから、そうとしか書きようがないのかもしれない。

 この際、『俳句歳時記』に触発され、風流を解する男になるのはやぶさかではない。こうなったら一句ひねっちゃうよ。

 ぽつねんとポカリの粉なめしのぐ夜は 海江田哲朗

 自分で解説するのは恥ずかしいが、学生時代の一夜を思い起こして詠んでみた。どうですか、このにじみ出る孤独感と、怨念すら漂う寂寥感。遊ぶカネがない。友だちと会う予定もない。ほぼ妖怪だね。妖怪ポカリなめ。ひもじさのあまりポカリ(スエット)の粉末をなめたことのある人間とない人間では、その後の人生に差が出てくると思う。えっ、季語はどこに? ポカリでしょう。ポカリといえば夏。それも、あっちいなと空を見上げる盛夏。充分に成立すると強く提唱したい。

 とりあえず、これで僕も人に言っていいかな。君も歳時記の一冊や二冊は持っておかないと!

 
 
 
-ヒビレポ 2014年4月25日号-

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