買ったなら読め! 第5回

葬式やらない宣言

 
海江田哲朗
(第12号で「劇団カクスコ 11年後のカーテンコール」執筆)
 
 
 
 僕は、家族や親しい友人たちに「葬式やらない宣言」をしている。死んだら土くれに還るだけ。それで充分。特別なことは何ひとつ望まない。戒名もいらない。会ったこともないお坊さんにお布施を納め、ありがたく頂戴する謂われはない。サッカーつながりの知り合いには、キックオフの前に「あいつ、死んじゃったな」と一瞬思い出してもらい、あとはいつも通り試合を楽しんでくれればいい。

 不測の事態に備え、友人のMにはこう言い含めている。
「いいか、パソコンのDドライブに○○というフォルダがある。○○に意味はない。用心のために、あえて重要性の低そうなタイトルにしただけだ。ここには人には見られてはならぬ動画や画像が保存されている。俺が死んだら、お前は一時の混乱に乗じて周囲の目を盗み、これを速やかに削除するんだ。その際、ゴミ箱をカラにすることも忘れるな」

 どうして、こう考えるに至ったのか。ひとつのきっかけは、十代の頃に読んだ藤原新也の『メメント・モリ 死を想え』(情報センター出版局)のような気がする。現在、同社では絶版となっているが、三五館から21世紀エディション版が出ている。


 
〈ニンゲンは犬に食われるほど自由だ。〉
〈死体の灰には、階級制度がない。〉

 人の足を貪り食う野犬がおり、大ざっぱに焼かれる死体があった。それらインドの写真と言葉に触れ、自分なりの死生観を持つようになったかもしれない。

 そういった観念とは別に、知人友人にわざわざ面倒をかけるのは忍びないという気持ちもある。いやいや、お葬式は残された人たちのためにあるものですよ。その考え方は重々理解できるけど、そこらはすでに3周くらいして、やっぱり最期は自分で選び取りたいと思う。

 問題は、いつ自分が死ぬのか。希望としては、両親よりもあとであってほしい。思いのほか生き長らえ、身近な人々をあらかた喪ってしまった場合はどうか。僕がどのような考えを持っていようと、託す人がいなければどうにもならない。そのときは好きにしてくれという気分だ。どんな扱いだろうが、文句をつける気はない。

 わが家は妻とのふたり暮らし。子どもはいない。僕が先に死んだら、残された彼女は「葬式くらい出してあげたら」という親族や世間のプレッシャーにさらされるだろう。だから、こうしてはっきりと書き残せるのは良い機会だと考える。
 

 
 島田裕巳の『葬式は、要らない』(幻冬舎新書)。数年前に出版された当時、かなり話題になった一冊だ。たぶん、まだ先のことだし、いずれ読むかと放置してあった。自分の死について具体的に考えるのは、怖かったのかなぁ。「葬式やらない宣言」の理由もいまいちあやふやなところがあるので、ちゃんと読んでみよう。
 
 
 
-ヒビレポ 2014年5月2日号-

Share on Facebook