初めまして津島ですけど、いい年なんで大人やってます。  第1回

tsushima

同級生がFacebookで子供のことばかり投稿する件

 
津島千紗
(第16号で「探偵失格」を執筆)
 
 
 
 
はじめまして。レポ16号のライター募集に応募し、原稿を掲載していただいた津島千紗です。よろしくお願いいたします。
もういい年なので、仕方なく大人をやっています。こちらヒビレポの連載ではそれをテーマに書かせていただきたいと思います。

第一回は「同級生がFacebookで子供のことばかり投稿する件」です。

現在進行中で、とにかく同級生たちは繁殖している。また、最近産んだと聞いたと思ったら今度は第二子妊娠出産のニュースも次々と出てくる。大繁殖時代である。本当に大人になったなあとつくづく思う。
というのを、Facebookでものすごく感じるのだ。Facebookでは、同級生によるひたすら子供の写真、子供についての投稿が多いのである。もちろん、たまにならいいのである。友達の子供にも興味はある。だが、毎日、何人もの同じような子供の写真ばかりを見ていると正直「うっぜえ」と思ってしまう。

(ご存知の方も多いかと思いますが、Facebookとは、ソーシャルネットワーキングサービスの一つであり、実名や実の出身校で登録されていることが多いため、現実での知り合いとつながりが強いものです。そのため、同級生とのつながりが横にどんどん広がっていきます。卒業後一回も会っていないような同級生の近況も知れたり交流できたりします。各個人が写真つきで投稿が可能で、それを見た人が「いいね!」を押したりコメントしたりすることで交流するというのが日本での一般的な使われ方かと思います。)


 
子持ちになった同級生の中には、もちろん全員ではないが、確かに子供のことしか頭になくなってしまったようにしか見えない人たちがいるのである。しかし、彼女たちは何も悪意のある投稿をしているわけではないし、ましてや子供たちに罪はない。うぜえ、などと思うのは非道徳的であり、人として疑われかねないため口外すべきではない、と思っていた。が、ある日、子供のいない気の置けない女友達との飲みの席で、「Facebookって子供のことばっかりでうざいよな」とこぼしたところ、大賛同が得られたのである。よかった、そう思ってたの自分だけじゃないんだ!! その日の酒は大いに盛り上がり、とても美味しかった(ちなみにFacebookのネタは酒のつまみにもってこいである)
自信をつけた私はその後、ちらほら周りを探っているが、けっこうみんなウザいと思っているようなのである。

しかし、同級生が一生懸命大切な子供を育てて可愛がり、それを投稿していて、何がいけないのだろうか? 素晴らしいことではないか。ウザいと思ってしまっている自分にとても罪悪感があるのだが、Facebookを開くたびに飛び込む子供に関する投稿に対する嫌悪感も拭えないしストレスもたまっていた。もちろん、子供に関する投稿のすべてがウザいのではない。私だって微笑みながら「いいね!」を押していることだってある。しかし、一部がウザいと感じる理由が必ずあるはずなのだ。そこで私は、この気持ちについてこれを機会に考えてみたのである。

そこには、二つの「ウザい」と思う全く違う理由があった。

まず一つは、「どうでもいい」である。私がウザいと感じる投稿の特徴として、子供のどうでもいい育児日誌のようなものが多い。
こちらは比較的、いわゆる「ただの同級生」が多い。当時、クラスでも同じグループとか特に仲が良いというわけではなく、卒業後一回も会っていないしFacebook以外の連絡先は知らないような人が多い。だから、そのような関係性の同級生の子供の話などどうでもいいに決まっているのだ。

多い例をあげてみよう。

「熱が37.5度あり、保育園から連絡があってお迎えに行った」
「外耳炎で耳鼻科に行きました」

子供というものはしょっちゅうこのような小さな病気をしているのだが、それを必ずFacebookで報告される。そりゃあ当人にとっては心配だろうし、初めてのことなら大騒ぎであろう。しかし、そんなもん心配するのは二親等以内であろう。あえて言おうか、三親等ですら心配しない。

「公園で一つ年上のMちゃんと遊んでもらったよ☆」

友達の子供ですらどうでもいいのに、まったく知らないよその子供まで出てきた。誰なんだ。

「ばあばに買ってもらった黄色い長靴がお気に入り☆」

ここで一発、長靴をはいてカメラ目線な子供の写真。親から見たら可愛いのだろうなってのは、わかりました。子供に罪はないのだが、別に子供好きでもない人の目は常に冷静である。

「娘ちゃんは焼きたての手作りパンが大好きで朝からいっぱい食べました(+_+)」

それがどうかしたのでしょうか? 自身のことや夫のことなら、あえて書かないような内容でも子供のことだとなぜか書く。あと、ホームベーカリー普及率がすごいし、それ活用してますアピールもすごい(うちにもあるが)。

といった具合である。わかっていただけたであろうか。現在、私のFacebookでは毎日こんな投稿で溢れている。

そして、ウザいと感じるもう一つの理由は、「子供のことしか書かれておらず、友人自身の存在が感じられない」である。
先ほど書いた「どうでもいい」が心からどうでもいいので非常に明快であるのに対し、こちらは感情がややこしくねじれている。こちらの場合、私は本来彼女のことが好きだったし今も友達なのである。子供はどうでもよくても、彼女のことはどうでもよくないのだ。

しかし、子供のことしか書かれていない投稿を読むにつれ感じる「そこにあなたはいるのかい?」という疑問が消えない。主語は彼女ではないのだ。
すべて主体は子供。肝心の同級生の存在が見えない。そこに大好きだった「つかもっちゃん」はおらず、「翔太君のママ」しかいない。私は同級生たちを、よその知らないおばさんのようにすら感じるときがある。私が知っているつかもっちゃんは、そこにはもういない。

育児真っ只中の母親にとって、子供と向き合っている時間は彼女の現在そのものなのかもしれない。そんなことは子供のいない私にはわからない。だが、私は、彼女の友達だ。決して子供の友達ではないのだ。子供が毎日何してようがどうでもいい。私は、彼女がどんな映画が好きか、どんなお店に行ったのか、何をして過ごしたのかを知りたい。子供ではなく彼女の今が見たいのだ。

大好きだった彼女たちだからこそ、私はとても寂しい。

彼女にとって子供が彼女の今の全てだったとしても、私から見たら、その子供は、私が彼女と友達だった十何年も後から突然出てきて我が物顔で彼女を独占している存在であり、よく知らないよその男の血が半分入った生き物に過ぎない。もちろん、実際に会ったら友達の子供はかわいいのである。だが、大好きな彼女を後から来たやつに取られた、という気持ちが消えない。それが「ウザい」という気持ちになっていたようなのである。非常に幼稚な考え方であることは承知だ。

かつて、同級生と私は同じことで腹が痛くなるほど笑い、コンビニの100円の紙パックのジュースで道端で何時間もしゃべっていられた。時には漫画を回しあい、授業中に机の下でこそこそ読んでは教師に気付かれ一緒に怒られ、教師に逆ギレしているような十代特有の自分勝手さも当たり前のように持ち合わせており、とにかく自分のことしか考えていなかった。いつまでもこの楽しさは続くのだと信じていた。しかし、子供が生まれると自分中心だったはずの彼女は消え、なんとかちゃんのママになっていた。いつまでも少女のままではいられない。そうFacebookは教えてくれる。

もう二度と戻れないところに私たちは離れてしまったのだろうか? それともまたいつか戻れるのだろうか? 今はまだわからない。私に子供が生まれたら、ママ友としての関係構築もありえるのかもしれない。その時は私も子供が主体のFacebookの投稿をするのだろうか? 主語であった私は消えるのだろうか?
十代だったころに戻りたい、私はさみしいのだ。だが、また、大繁殖時代が終了した頃、同級生たちとただのおばさん同士として遊べる日が来るのかもしれない。まだまだ大繁殖時代の中にいるうちはわからないことばかりだ。

子持ちの皆さんは、主語や内容を全部子供にするのではなく、あくまでも自分自身が主役のFacebookにしてほしい。女子中高生だった彼女たちは完全に自分が主役だったはずだ。たとえFacebookという画面であろうと、なんとかちゃんのママという立場でしか自分を表現できていない同級生を見るのはつらい。彼女たちはもっと特別な存在だったはずだから。大人だから、母親だからといって、私の知らないおばさんにならないでほしいのだ。

 
 
 
-ヒビレポ 2014年7月1日号-

Share on Facebook