わたしの日本ぽつぽつ北上記 第9回

yoshika

小田急線 鶴巻温泉駅―海老名駅(神奈川県)

優先席のナンパ

 
佐藤温夏
(第16号で「どうしても柔道には惹かれてしまう」を執筆)
 
 
 
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 1カ月ほど前のひどく暑い日のことである。取材からの帰り道、小田急小田原線の鶴巻温泉駅から新宿方面の電車に乗り、優先席の脇に立った。すると座席側から声がする。あなたも座りなさいよ。振り返ってみると、声の主は老婆だった。まるまった背中をさらにまるめ、埋もれるようにして座り、ワインレッドのめがねの奥から、まぶたの垂れた目を輝かせてこちらを見ている。ベージュに黒の幾何学模様のプリント地のブラウスとパンタロンが、涼しげでとてもおしゃれ。胸元の木彫りのブローチがアクセントになっている。見たところ、怪しい感じはしない。どうしたものか……。いきなりのご提案に判断を保留していると、いいのよ、誰か来たらどければいいのよ。……これも一種のナンパか? 私は楽しくなってご婦人の隣に腰かけた。

 そこからすぐにはじまった身の上話によると、このご婦人は東京生まれの83歳。結婚してから神奈川に移り住み、現在はこの沿線で娘家族と同居しているという。九州にいる長男は東大を出てお医者さんになり、その息子二人も東大の医学部に通っているとか。ちょっとした自慢話が入っているがそこはご愛敬、ほぉ、優秀でいらっしゃるんですね。素直に感想をお伝えする。しかし応答はない。そして、まるで私の声が聞こえていないかのようなそぶりで、唐突に質問を浴びせてきた。
 ところであなた、どうしてお化粧しないの? 
 

 
 なかなか率直な質問である。初対面だからこそかもしれないが、しかし、私はとくにイヤな感じはしなかった。聞きたいことをストレートに聞くというのはインタビューの基本だし、このご婦人は、おそらく好奇心旺盛で、聞いてみたいから聞いてみた、というだけのようだった。だいたい、座りなさいよと声をかけてくるくらいなのだ。日ごろはほとんど接触機会がないであろう、42歳も年下の同性の生態に関心があるとお見受けした。そこで私は説明する。
 これでも少しはお化粧しているんですが、きょうはこの暑さでしょう、すっかり汗で流れちゃったんですよね。

 ふううーーーーーん。そう声には出さないまでも、この回答にご婦人は納得していないようである(たぶん、汗で落ちるのを想定してもっと厚塗りしろ、ということなんじゃないかと推察した)。そして、それならという風情で身を乗り出し、第2の質問を投げかけた。じゃあ、なんでそんな格好してるの?

 次はそう来ましたか。これもなかなかストレートなお尋ねだ。この日の私の服装は、洗いざらしの白の綿のシャツにモスグリーンのこれまた綿のパンツだったのだが、きっとご婦人のイメージする仕事服ではなかったのだろう。そこで私は説明する。きょうの仕事はリラックスして進めたい内容だったので、こういうカジュアルを選んだんです。この白いシャツは襟もついてるし、清潔だし(ちゃんと洗濯している)。あ、スーツを着るときもありますけど、あんまり着ないんですよね……。

 しかし、彼女からの返事はなかった。たぶん、この答えにも納得いかなかったのだろう。それでも、真っ赤な口紅を塗ったくちびるはちょっと楽しそうに笑っていた。そしてひとこと言ったのだった。まぁ、つまりおしゃれじゃないのね。

 ひどい! ひどすぎるが、あまりの直球にあっけにとられて言い返す言葉がみつからない。と、同時に電車は海老名駅のホームに滑りこんだ。
 降りなきゃ。ひとりごちて立ち上がり、さよならのあいさつもそこそこにドアに急いだご婦人は、あと数歩でホームに降りようかというその瞬間、くるりとこちらを振り向き、小さく叫んだ。
 おしゃれすんのよ。

 えーっ、最後の最後にそれですか? やはりあっけにとられながら、しかし、イヤな感じは残らなかった。それよりもむしろ、人生の先輩のあっけらかんとした自由な雰囲気に、背中を押されたような思いがした。言いたい放題に言われたのにおめでたいかもしれないが、でも本当にそんな感じがして、機嫌よく一般席へ移動した。
 
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-ヒビレポ 2014年8月29日号-

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