こしょこしょ話 第9回

sumimoto

見せてよファッション

 
住本麻子
(第16号で「東京駅でプチ帰省」を執筆)

 
 
 
半年ほど前、イメチェンを試みた。それまでの私の服装は、ジーパンに適当なトップスを合わせるか、一枚で着られるワンピース。すごくオシャレではないけど、普通だと思っていた。
しかし何かと「なんかちょっと子どもっぽい」と言われる。もうちょっとオトナの色気と社会性を身に付けようよ、というのだ。高校時代から着ていた服もたくさん持っているので、子どもっぽいと言われるのは納得だった。とはいえ服にはあまり興味がない。買い足すのもめんどくさい。

しかしそれではモテないよ。年相応のオシャレをしようよ。そう言われてようやく私は重い腰を上げた。友人が服選びに付き合ってくれるというので、私は新宿へ服を買いに出かけた。さまざまな服を試着して迷ったすえ、カーディガンやタイトスカートを購入。
 
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かわいいと思ったし、友人もよく似合ってると言った。大人っぽく見えるのも嬉しかった。


 
以来、引き続き服を買い足し、しばらくはそういったコンサバファッションを楽しんだ。特にモテはしなかったけど、周りに「お、最近ちょっと雰囲気変わった?」と言われたりしたし、「何事も努力だな」と成果を実感した気にもなっていた。楽しいと思った。というより、思うようにしていたのだった。

しかしそれから半年。最近の私は以前のように雑に服を着ている。単純に、買い足すのがめんどくさくなった、それもある。朝の支度に時間をかけられない、それもある。彼氏ができなかった、それはあるけどそれは別にいい。問題はそこじゃない。ただ、私が思ってしまっただけなのだ。何も変わってないのに、と。

前よりいい服を着ても、私自身は何も変わっていないような気がする。それは「ありのままの私を見てほしい」という気持ちとは、ちょっと違う気がする。服を着るのは私。出掛ける前に鏡でチェックする。しかし一日中鏡を見ているわけじゃないし、そもそも私の姿を直接見ることはできない。その見たことのない私が、「最近変わったね」と言われるのだ。

そう言われることに最初は素直に喜んでいたけれど、それもだんだん疑問に感じてきた。まず、どんなに言われても実感出来ないのだ。私はファッションには興味がないと言ったけれど、実はごくたまーにファッション誌を買う時があって、その時はかなりじっくりファッション誌を読み込む。可愛い女の子たちがオシャレをしているのを見ると、オシャレの末端にいるような私でも、つい幸せな気持ちになるのだ。これはどういうことか。つまり、私にとってファッションとは、飽くまで私が「見る」ものであって、「見られるもの」ではなかったのだ。なんか損した気分。私がお金を払って、私が見られないファッションなんて!

そしてもう一つは、私の把握できないところで「私」が変化していく、このことが空恐ろしかった。他人にとっての「私」の印象が変わっていく。それは他人にとって、「私」そのものが変わっていくことと、ほとんど違わないんじゃないだろうか。私自身、そうやって人を判断してきた。久々に会った友人の服装がガラリと変わると、それだけで友人は見知らぬ人に思えてよそよそしい気持ちになる。その人自身の何かが変わったのだと思い込んで、詮索しようとする。何かその人を変える大きな出来事があったのではないか、とか。また、もしかしたらこれまでのように私と接してくれないんじゃないか、とか。当の私は、ちょっとイメチェンして、あわよくばモテたいくらいの変化しかしていないのに。というか前々からモテたいとは思っていたのだから、本当に別に何も変わっていないのだ。

そう思うと馬鹿らしくなってきて、結局ほとんど元の服装に戻ってしまった。服を買いには三ヶ月以上行っていないから、夏服はほぼ去年のまま。夏休みに入り人に会わなくなったのをいいことに、Tシャツに短パンという小学生と見分けのつかないような服を着ている。せめて私の視神経を他人の眼球に接続できたらもっと楽しめただろうけれど、今の科学技術では不可能だ。私は私が服を着ているところ、一度でいいから見たかった。太い太いと思っている足も、ゆいいつホめられたことのある鎖骨も、自分の眼で見てみたかったよ。「きっとこんな服が似合う」と、友達みたいにいってやりたかった。でもそんなことは不可能で、何度想像してもいびつなイメージでしかない自分の体を、私は今日も持て余している。友達になれない体と、今日も生きている。

 
 
 
-ヒビレポ 2014年8月28日号-

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