笑いたい読書  第3回


人の造りしもの

 
木村カナ(レポ編集スタッフ)
 
 
 
 その本を読んだ前と後とで、ものの見え方が変わってくるような本が好きだ。

 一昨年の第1回「笑う本棚大賞」の受賞を惜しくも逃した――2012年版の選書リストと選評は「季刊レポ」10号に掲載されている――『股間若衆』は、そういう意味では、非常に強力な一冊であった。
 
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木下直之『股間若衆』新潮社

 
 21世紀の日本の街角で、当たり前のように裸体を晒し、ともすれば風景にすっかり溶けこんでいる彫刻作品。その多くは女性ヌードなのであるが、この本のメインテーマは男性裸体彫刻。著者は彼らを「股間若衆」と呼ぶ。この字面が強烈すぎて、それが古今和歌集の洒落なのだって、しばらく気がつかなかった。


 
 近代以降の日本の彫刻作品の多くは、西洋美術の伝統を継承して、人体のリアリズムを追求している。しかし、男性裸像の股間に注目すると、堂々と開陳している作品がある一方で、パンツ・ふんどし・腰巻き・葉っぱetc.で隠した、かろうじて全裸ではない作品や、全裸でもそこだけは「曖昧模っ糊り」の非リアリズムでごまかしている作品が制作されてきた。そうした「股間若衆」の誕生と定着の背景に、今日に至るまで延々と続いている芸術かワイセツか問題があったことを、豊富な図版とともに明らかにしているのが本書である。

 下半身をリアルに表現したら、ワイセツ扱いされ、取り締まりの対象になりかねない。ならば、ポーズや構図を一ひねり、股間にだって一工夫。この裸はワイセツなんかじゃない! 芸術作品なのです! 明治・大正の芸術家たちによる試行錯誤を経て、健康で文化的な市民生活の彩りとして、裸体彫刻は堂々と公共空間の中に設置されるようになったのだった。駅前に立っている真っ裸の「股間若衆」を目にして、いやらしいと顔を赤らめたりしかめたりする人はいないだろう。というか、人体彫刻の存在感自体が、すでに希薄になっていやしないか?
 
wakashuu
 
 近所にある総合病院の植え込みの中に、唐突に突っ立っているこの彫像の存在に急に気づいたのは、この本を読んでいたからだと思う。まさに「股間若衆」なこの男性裸体像、一見「曖昧模っ糊り」のようでありながら、しっかりとパンツ着用……って、ついそこに目が行ってしまったのも、この本のせいなんだからね!
 それにしても、全体的な印象云々よりも、まず股間に目が行ってしまうとは、彫刻作品の鑑賞の仕方としてはいかがなものか? 渾身の力でこの銅像を作り上げたであろう彫刻家にも、パンツ一丁で無理な姿勢を続けたのであろうモデルにも、なんだか申し訳ない気持ちになった。しかし、もはや引き返すことはできそうにない。こうした男性ヌード像を見るたびに、わたしはきっとその股間を確認してしまうに違いない。

 と、それだけのインパクトを持っている『股間若衆』を見事に押さえて、第1回「笑う本棚大賞」を受賞した『醤油鯛』、これまたびっくりするほど強力で、「笑う本棚大賞」受賞にあまりにもふさわしすぎる本だった。
 
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沢田佳久『醤油鯛』アストラ

 
 『醤油鯛』も面白かったのだけれど、受賞第一作として「季刊レポ」11号に掲載された「五十円玉はどこだ」もオモロおかしくって笑えたし、正直、わたしは今でもその余波に困っている。何しろ、小銭入れを開けるたびに「小銭ファウナ」なる単語が思い浮かび、100円玉と50円玉とが紛れた瞬間、この「欠陥硬貨」め!と舌打ちしたくなるからだ。

 『醤油鯛』においてすでに確立していた、自然界を観察するがごとくに対象を眺めて、その細部ににじりよっていく、沢田さん独自のスタイルが、「五十円玉はどこだ」においてもしっかり炸裂しているのだった。
 財布の中の100円玉と50円玉が微妙に似ていて紛らわしい、その一瞬の苛立ちは、誰もが感じたことがあるものだ。その感情に沢田さんはにじりよっていく。「小銭ファウナ」の理想と現実について、生物相を見つめているかのように、細かく考察していく。たかが50円玉、されど50円玉。真剣なんだかふざけてるんだか、この人はどこまで本気なんだろうか……と急に心配になったりもする。

 「未完成の五十円玉を完成させよう」という沢田さんの提言は、硬貨を作っている造幣局まで、はたしてちゃんと届いているだろうか。っていうか、ライター特集が好評だった「季刊レポ」11号、すでに編集部在庫切れで、こうして紹介しても購入ができないのであった。ごめんなさい!
 
 

-ヒビレポ 2014年10月16日号-

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