ハルヒマヒネマ 5−4

 

ジビエの季節です

 
やまだないと(「料理入門」連載中)
 
 
 
 
 
平日午後の名画座・早稲田松竹は満員だった。おじいちゃんおばあちゃんが多いから好きだここ。ハルヒのもうすぐそこの未来、で観る映画。

『ファンタスティックMr.フォックス』 2009  アメリカ/イギリス
D:ウェス・アンダーソン (アニメーション監督)マーク・グスタフソン W:ノア・バームバック/ウェス・アンダーソン  A:ジョージ・クルーニー /メリル・ストリープ/ジェイソン・シュワルツマン

ウェス・アンダーソンの映画が大好きで、生まれ変わったらウェス・アンダーソンになりたいハルヒだが、知ったのがDVDなので、新作こそ映画館で観るんだといきごんでいるうちに見逃していたアニメーション映画。『チョコレート工場の秘密』のロアルド・ダールの児童文学『父さんギツネバンザイ』が原作らしい。読んだことないけど、なんてかいらしい題名なんだろう。
人間はよく、動物を人間風に描く。動物たちは服を着て、靴を履いて、人間風の家族を作って、家具のある家に住み、火を使って料理をする。歯も磨くし、お風呂にも入る。子供は学校に行き、大人は仕事に行く。
ミッキー・マウスなんかネズミなのに犬まで飼ってる。
「擬人化」とはいうものの、こういう子どもの本や教訓寓話の場合は、動物を人間風に描いているというよりも、人間を動物に置き換えて描いているんだろう。だからほんとは「擬獣化」だ。その場合、その世界で人間の姿のままで描かれる圧倒的恐怖の敵は、実際のハルヒたちからすると何になるんだろうか。
フォックス氏とフォックス夫人は、若かりし日、ボニーとクライドだった。
怖いもの知らずで、農場を荒らしていたが、罠にかかってようやく死を意識した時、まっとうな狐になってそこから人生をはじめることを誓う。
フォックス氏は新聞記者となり、生まれた息子アッシュと夫人と3人で安全な穴蔵住宅で暮らしていた。でも、フォックス氏の野生は復帰と上昇を欲し、それを満足としないのだった。それが家族や森の動物たちを巻き込んで、大変な事態に。
児童書で読むと、きっとこの父さんギツネは、知恵と勇気にみちた賢い人なんだろうが、映画のフォックス氏は、たしかに知恵はまわるものの、詰めが甘く、後先の判断に鈍い。それだけじゃなく、ウェス・アンダーソンは、フォックス氏にかなりリアルな人物像をもたせている。

 
それは、子供にわかりやすい父さん像ではなく、というか、子供向けの作品には全く余計なリアルさで、かといって、子供のための物語を大人が楽しむために解釈したわけでもない。
きっと、自分がよく知っている「父さん」にしたのだろう。ハルヒもよく知っている「父さん」だ。
結婚して家族を持つことは、「父さん」「母さん」になることを(今かいずれかに)受け入れることのように思う。受け入れた気になることだと思う。
「父さん」「母さん」になること、親になること、それは、一旦自分を終わらせることのようにハルヒには思えるのだ。自分を捨てるとか犠牲にするとかではなく(そうは絶対に思いたくないだろうみんな)新しい役割を引き受けること、それが「親」のイメージだ。
でも、なかには、受け入れた気でいるのに、引き受けた気でいるのに、子供のまま年を取っていく人もいる。フォックス氏の野生は家族のしあわせよりも、明らかに自分の充足を求めている。それが家族の幸せにもなると思おうとしている。妻には恋人のように接し、一人息子のアッシュが反抗期で、すこし「変わった」子であることも、そう気にしていない。
でも、それは気にしていないのではなく、息子に向き合えないのだ。向き合った途端彼は「父さん」にならざるをえない。
甥のクリストファソンとは、話も通じるし、積極的に友情を結べる。だってどんなに向き合ってもクリストファソンにとって自分は「父さん」ではないからね。クリストファソンは思うだろう。自分の父親と同じ大人であるのに、この人は話が通じるし、人生を楽しんでいる、と。クリストファソンの目に移る自分はファンタスティックであるはずだ。
クリストファソンを褒め、クリストファソンを秘密に誘う。
まったく、ハルヒの父さんだ。
ハルヒの父さんは、ハルヒと弟、自分の子供のことが苦手だ。態度に表すわけではないが、子供の時から、いとこのおにいさんおねえさんと、「若い」話を楽しそうにしていた。いとこたちからも物知りで話の通じる「友達のように」慕われているようだった。
ハルヒは、父さんととてもよく似ている。だから、そういう父さんといとこたちを見て、割と早いときから、ああ、そういうことか、と、理解した。
うちの父さんは、あんまり父さんじゃないんだな。父さんでいたくないんだな、と、わかってあげることにした。
なんとなく、お互い様だもんね、って気がしていたのだ。
だって、父さんも母さんも、「父さん」として「母さん」として生まれてきたんじゃないのだもの。父さん母さんが、とりあえず、ハルヒが生まれるときに「親」の役目を引き受けてくれたおかげで、ハルヒはこの世に生まれてきたし、育ったよ。
父さん母さんが「親」を引き受けた年を越えて、未だその役目を引き受けることをしないハルヒは、ただただ感謝しかない。

ところで、このアニメ、服を着た動物達が大活躍していても、どこか暗く不穏で怖いのは、よくみたらみんな死んだ動物、剥製のようだからだ。
毛並みも、肉付きも、悪い古い剥製や古着屋で買った襟巻きのようだ。
ナフタリンの匂いがする。

併映は『グランド・ブダペスト・ホテル』だったが、すこやかに熟睡。ハルヒは映画館だとほんとうによく眠れる。(ハルヒほんとにウェス・アンダーソンのファンなんだろうか??)
 

 

 
『美女と野獣』 2014 フランス/ドイツ
D:クリストフ・ガンズ W:クリストフ・ガンズ/サンドラ・ヴォ=アン A:ヴァンサン・カッセル/レア・セドゥ

ヴァンサン・カッセルで、『美女と野獣』、監督は『ジェヴォーダンの獣』のクリストフ・ガンズと聞いて、ハルヒが期待しないわけないじゃないか。期待したからこその期待はずれ。
「ジェヴォーダン」であれほどねちっこく、中世フランスのグロテスクな人々をなぜか香港カンフー映画テイストまでおりこんで描いてみせたガンズ監督が、なんて中途半端な!!
だいたい、ヴァンサン・カッセルを野獣にするなら、どこのどいつが、ぬいぐるみをかぶせようと思うんだ!!それこそ「ジェヴォーダン」のカッセルは、野獣そのものだったじゃないか!!
たしかに、ベルを演じるレア・セドゥの女の子像は現代風に冷めててかわいらしかったかもしれない。日替わりドレスも豪華だった。(田舎の結婚式場のお色直しフルコースにも見えたけど)
だけど、カッセルを野獣にキャスティングしたのなら、もう、これはいかに野獣カッセルを撮るかって映画にならなきゃ嘘じゃん。
監督は、ディズニー映画の簡略化された「美女と野獣」ではなく、フランスで読み継がれるおとぎ話の「美女と野獣」を映像化するつもりでいたのかもしれないが、テーマや人間の描き方はディズニーのアニメ映画のほうが深かったとハルヒは思う。
コクトーの監督した『美女と野獣』も、昔見たときは子供向けのおひめさまとぬいぐるみの劇にみえたが、大人になってみると、慣習的な恋愛や結婚にとらわれないベルがおもしろい。
ガンズ版は今までの映画では描かれなかった、王子がなぜ野獣に変えられてしまったのかに言及しているが、それも台無し感がある。だってベルがすや〜っと眠るたび、夢の中でかつて王子の妻だった森の精霊の声にみちびかれて、とっとこ深窓を順番立てて知っていくだけなんだから。
ベルは自分で感じたことより、事実を知って、野獣について納得していくだけなのだ。
子供向けのディズニー映画だって、野獣とベルが心を通わせて行く様子が描かれているのに
だったら、もう、従来の「美女と野獣」の物語は描かずに、野獣の過去だけでもよかった。
やっぱり、王子時代のヴァンサン・カッセルはとてつもなく魅力的なんだもの!
50歳のヴァンサン・カッセルが王子というのもどうかと思ったけど、不思議と王子と呼ばれるカッセルに違和感はないのだった。彼の湖のような宝石のような、あの青い瞳が深紅の衣装に、おとぎ話みたいに映える。美しい妻を手に入れても、未だ黄金の牝鹿を追って自由気まま、無邪気な狩猟マニアの王子。そのとりまきの友人たちがまた、ボーギャルソンぞろい。何十匹ものビーグル犬軍団もかわいい。
ディズ二ーやコクトーでいえば、彼らが王子とともに呪いにかけられ不思議なお城の調度品やティーポットおばさんいなってしまうわけだけど、ボーギャルソンたちはともかく、ビーグル犬の変化した姿が、マスコット商品化をみこしたような今更なキャラ化で、しかもそいつらがまったくかわいくないし、活躍しないしで。
ハルヒだったら、ビーグル犬たちは逆に人間にするね。野獣とお城を守る残虐な少年たちにするね。
なんといっても、いちばんのがっかりは、野獣のぬいぐるみ造形。ヴァンサン・カッセルの面影は全くつぶされ(目さえ疑わしい)いまどきない子供騙し……子供騙せないデザイン。
「ジェヴォーダン」の「獣」も、あんまり具体的すぎてストップモーション・アニメ感がきわだっていたけど、あれはなんか、大映の特撮怪獣映画っぽくってよかった。
獣の造形にこそ、ガンズ監督の現代解釈があって良かった気がする。
コクトーの野獣は、まずジャン・マレーの美しさがぬいぐるみをかぶった容姿からも漂っていた。目を見ればジャン・マレーであることが、獣の本質が伝わる。ベルが、外見を超えて野獣にに惹かれていくのを感じる。
しかも、お耳がうごくんだから!ぴくぴく!ペタって!

コクトー版『美女と野獣』はべルに求婚し続ける野蛮な美青年アヴァン、ディズニーでいうところの筋肉馬鹿男ガストンと野獣をジャン・マレーが二役で演じていて、野獣の呪いが解けたとき、欲に溺れたアヴァンは野獣となり死んでいく。王子の姿に戻った野獣は(このシーンが夢のようで不気味だ)つまりアヴァンの顔をしていて、なんだよ、それって、なんか矛盾してるじゃないかとハルヒは思っていたのだが、あらためてコクトー版を見てみると、野獣に問われてベルははっきりアヴァンを愛していたというのだ。
そう、ベルは贅沢でわがままな姉さんたち、役立たずの兄さんたち、そして頼りない父さんをかかえて、ほんとは素敵なアヴァンと結婚したかったけど、我慢してたのだ。諦めてたのだ。
あーそれならわかるよ。それなら、やっと愛を確認した野獣が、アヴァンと同じ顔の王子になっても、ハルヒ、よかったね、と言えるわ。
ガンズ版ベルが結運命のまま、野獣の本質を見つけられぬまま、幸運にもヴァンサン・カッセルにもどった王子と幸せに暮らすのにくらべて、1946年にとられたコクトー版のベルはまず、野獣の館の美しさに惹かれ、野獣と「友達じゃいけないの?」と二人の関係を築いていく。
アヴァンのことも愛していたけど、あなたのこともあいしているわ、と言って、ジャン・マレーに「変わった子だな」と微笑まれる。
二人は手を取りあってアトムみたいに空を飛び(ほんとうです)王子の国に旅立って行く。
映画の冒頭、コクトーが、子供はどんな話も信じる。だから、この物語は子供のようにたのしんでね、との前置きをおくんだけど、大人でも、ベルと野獣の恋は信じられる。

 
 
 
 
ハルヒマヒネマ
http://blog.livedoor.jp/nuitlog/
最近のハルヒの頭の中、日々をささげる王子様観劇日記
http://bookman.co.jp/serial-novel/boyslife/boyslife/

 
 
 
-ヒビレポ 2014年11月14日号-

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