ハルヒマヒネマ 5−5

 

人にやさしく、だって自分にはもっとやさしくたいから

 
やまだないと(「料理入門」連載中)
 
 
 
 
 

『FRANK』2014 イギリス/アイルランド
D:レナード・エイブラハムソン W:ジョン・ロンソン/ピーター・ストローハン A:マイケル・ファスベンダー/ドーナル・グリーソン/マギー・ギレンホール

巨大なハリボテの頭。そこに描かれた見開いた大きな青い目、小さな鼻と口。フランクの「顔」はマスコットとしてはクールで可愛いのかもしれないけど、彼は、もう何年も、人前に出るときは(出てない時もかもしれない)その「顔」を被り続けている、と想像すると、息苦しく不安になってくる。映画を観る前のヴィジュアルでは、そういう不条理「キャラクター」が紛れた日常をゆるくおもしろげに描く、脱力コメディなのかと思っていた。で、実際そんな感じで始まったかにおもえたのだけれど……。
日本風に言えばユーチューバーでツイッタラ〜でブロガーで……まあいわゆる今時のSNS青年ジョンは、自分が発信者であることを願っている。自分の見た世界、出会った出来事を言葉にする、そして発信する。それが使命で選ばれた才能であることを願っている。歩きながらとりとめもなく言葉が溢れる。そこに頭の中のメロディがのる。鼻歌のような音楽を発信したいと願っている。そんな主人公の登場は、まず、デカ頭の不気味かわいい変なキャラクターに惹かれてこの映画を見に来たような観客には、そりゃあ、苦笑いでする〜っと滑り込んでくる。
そんなジョンが、偶然なのか運命なのか、通りすがりにライブのサポートに呼ばれてしまったバンドで出会ったのがフランクだった。
先述の被り物は、バンドのマスコットではなく、そのバンドのボーカルでスポークスマンであるフランクの「顔」。当然ながら最初はその「顔」に疑問と興味をもつジョンだけれど、バンドメンバーとしてアイルランドの森の別荘でアルバム作りの合宿生活を送るうちに、その感覚はすぐに忘れてしまう。(ジョンもハルヒも)
フランクの「顔」は、けっして拒絶ではなく、むしろ彼は人と繋がりたいのだということもわかってくる。その証拠に、表情のない「顔」にかわって彼は、口で「いま、困った顔をしながら笑ってる」「満面の笑顔」と表情を伝えてくる……ね?わかるでしょう?
まるでフランクはSNSそのものだ。
他人とつながるために、つながれるとても近しい魂をもった他人とともにあるために。フランクの「顔」は彼がたどり着いた大切な「存在できる自分」なのだろう。
フランクの巨大頭が、映画としての象徴的な何かであるだけでなく、フランクが生きる術であることは、よくみればマスクに施された細かい細工(耳は集音できるように穴が空いているし、アンプにつなげばマイクになるし、ほっぺたに換気扇みたいなのついてるし、食事はマスクの首もとの隙間から管で流動食、目は……よくわかんないけど見えてるらしいし)などでわかる。
フランクは、決して現実から逃げているのではなく、現実に生きるために工夫をしているのだ。


 
そんなフランクのもとに集まったバンドメンバーも、それぞれエキセントリックで個性的で個人主義ではあるけれど、ジョンは、次第に、彼らといる自分を愛するようになってくる。
今まで、柄にもなかった、運命共同体的な絆を、信じられる自分に気づく。万能感が沸き起こってくる。世界というのは、本当はこんなにも愛しいものなのだ。
……ジョンはそこを間違ってしまう。
ジョンは決して世界を知ったわけではない。知ったのは森の山小屋の5人との生活。
なのに、ジョンはフランクにも幻想を見せてしまう。
フランクもまた「顔」の中で、ずっと願っていたのだ。世界中と愛し合うことを。
閉ざされない自分を。

映画の感想をインターネットにあげるのはとても難しいなと思う。常にどのタイミングでも「まだみてない」人が読む恐れがあるから。
でも、どうしてもラストに触れたい。
ジョンのせいでバラバラになったフランクと仲間たちは、ジョンによって再会を果たす。
ハルヒがとてもいいラストシーンだと思ったのは、ジョンがそんなフランクたちを見届け、一人去っていくからだった。
結局は、人と人なのだ。世界なんて、ほんの4.5人、いや、たったもう一人との間にあるものでいいんじゃないだろうか。
世界中から愛されて、世界中を愛するなんて幻想が、自分が自分であることを許せなくしてしまう。ジョンにはまだ、たったひとりの愛する人も愛してくれる人もいない、それに気づいた。
それは寂しく苦いラストシーンではあるけれど、幻想から解き放たれて、軽やかに歩く後ろ姿に、清々しい気持ちになった。
まだ、出会えていない。もしかしたら、一生出会えないのかもしれない。
でも、こうやって育てていくんだってことが分かった。育て方がわかった。
一人で歩き出したい気分だよ。

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『ニンフォマニアックvol.2』 2013 デンマーク/ドイツ/フランス/ベルギー/イギリス
D/W:ラース・フォン・トリアー A:シャルロット・ゲンズブール/ステラン・スカルスガルド/ステイシー・マーティン

お待ちかね後編。前編があんなに愉快だったのって、やっぱり、冒険者がハルヒにとってのエロスの化身、ステイシー・マーティンだったからなのだろうか。
後半、シャルロットが演じるジョーは、とてもポルノだコメディだと笑ってられなくなってくる。
やってること、言ってることは滑稽なのだけど、痛々しい。実際痛い。
だいたい、セックスが自分にとってなんなのかなんて、普通は考えなくて済むことじゃないか。考えないじゃないか。それをこうして、物語にすると、考えなくてはならなくなるし、向き合わなくてはならなくなるし。セックスってそんなものなの?
突きつけられて、苦痛なのではなく、なんか、なんらかの結論、答えが導かれるのかと思うと、それがハルヒにはどうも、苦痛で、あ〜、嫌だな〜嫌な予感がするな〜と、むずむずし始めた。
ウィレム・デフォーの「闇金ウシジマくん」なんて、最高に面白いはずなのに、そこでよくわからない理屈で登場するまだ高校生の女の子ミア・ゴスは、ジョーが失い、ジョーが奪れる、若さというか、価値というか、自分ではもうどうしようもないもの、それがセックスの正体であるかのように存在してて、ジョーがバカみたいで、哀れで、ほんとうにラース・フォン・トリアー、って女の人に意地が悪い!!くそ〜っと歯ぎしり。
そして、それまでジョーの話に、優しく無邪気に耳を傾けてくれていたステラン・スカルスガルドおじさんが、ハルヒが最も聞きたくなかった、あまりにも耳当たりの良い結論を語り始めるので、うんざりしてしま……いそうになったのだが。
だから、ほんとうに、ラース・フォン・トリアー意地悪!!
でもね、これはラース監督が女性をいじめているのではなく、自分がこうしていじめられたいのだと思う。ラース監督は、その映画で常に、男の人たちではなく女の人に自分の身を置いているよね。
自分が女の人になったつもりで、シャルロットやステイシーに大冒険させたんだよね。
ハルヒは『ドッグヴィル』のニコール・キッドマンの大冒険も大好き!

 
 
 
 
ハルヒマヒネマ
http://blog.livedoor.jp/nuitlog/
最近のハルヒの頭の中、日々をささげる王子様観劇日記
http://bookman.co.jp/serial-novel/boyslife/boyslife/

 
 
 
-ヒビレポ 2014年11月28日号-

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