二代目『薔薇族』編集長の作り方 第4回

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郷ひろみのオジサン

 
竜 超
(第19号で「ヤマジュン・コード」を執筆)
 
 
 
重度の中二病患者だった少年が、本邦初の同性愛マガジン『薔薇族』の二代目編集長になるまでを描く大河ロマン(自称)……今回は、「ちょっとは肩書にそぐったことも書いといたほうがいいかも……」というコトで「1980年代ゲイ業界人の面白話」を語ります。

1983年にぼくが上京したのは演技系の専門学校へ入学するためだったのですが、授業は夜間だし、アルバイトは特にしていなかったのでヒマだけは腐るほどあった。
正確に云うと、上京後すぐに飲食店の厨房バイトへ応募したンだけど、「入ったオーダーをまともに覚えられないポンコツ」であるということが判明したので、すぐに辞めてしまったのであります。
けれどもそれで落ち込むようなことは特になく、むしろ「自分のアタマは『覚える機能』ではなく『考える機能』に特化してるのだ」と知ることができて良かった、なんて思ったりして。
徹頭徹尾「クヨクヨ」ということをしない精神構造なのですワ。

で、ヒマができたぼくは、せっかく花の東京にいるわけだからと、都内に点在する「ゲイ関連スポット」を探検してまわることにした。
まァ、『薔薇族』の名物とも云える「巻末に大量に入っている広告」の中から面白そうな店を選んで覗きに行っただけの話なンだけどネ。
まわった店は、どれも郷里にはなかったタイプのトコばかりで、入るのに勇気が要ったけれども、「新しい世界に触れたい!」という好奇心は充足させてくれた。


 
渋谷の裏町に当時あったポルノショップは、男女モノのポルノグラフィも併せて売っていたけれども、ソッチ方面は幼少期からたっぷり見ていたので特に感慨はなかったス。
じつは母親の母親が旅館を経営してたンだけど、そこは「遠洋漁業の船乗りサンが陸に上がってる時の下宿屋」でもあった。
そしてぼくは、その人たちの部屋に山と積まれていたエロ本たちを幼稚園の時分から、コッソリ読みふけっていたのである。
団塊世代にとっては涙モンであろう平凡出版(現マガジンハウス)のミニミニエロ本『ポケットパンチOh!』とかをネ、難しい漢字とかは飛ばし飛ばしではあったが、ドキドキしながら読み進んだものだった。
ある意味、ぼくは「エロ本によって読書習慣をつけていった」と云えるかもしれない……。

最初のうちこそ「ただ店を覗く」程度の探検でもソレナリに楽しめていたが、やはり「傍観するのみ」というのはつまらなく、じきに飽きてしまった。
そこで今度は「趣味と実益を兼ねた冒険」へ移行することにしたのである。
『薔薇族』の広告だとかスポーツ新聞の求人欄とかには「エッチ系のモデル募集」が色々と載っていたので、片っ端からソコへ応募しだしたのだ。
ギャラのほうは大したことがなかったが、数をこなすとまァまァなお小遣い稼ぎができた。
そして何より、治りきらない中二病に由来する「自惚れ」も満足させられたのであった。

創刊当初の『薔薇族』で活躍し、最晩年にはフジテレビの深夜番組で「男性美を見事に収める達人流写真術」を披露してスタジオ内の度肝を抜いた「波賀九郎」というごカメラマンがいた。
その人(80年代の時点ですでにオジイサンだった)のモデルを2回ほどやったことがあるのだが、それにからんで面白い話がある。
2度目の仕事をしてからしばらく経った頃、なぜか波賀さんからアパートに電話がかかってきた。
「……はい、何でしょう?」と、いぶかしみながら受話器をとると、芳賀さんはやけに弾んだ声でこう云った。
「モデルの男の子たちが接客する焼肉屋をやろうと思うのだが、キミ、働いてくれないかい?」

当時は「ノーパン喫茶」や「愛人バンク」に代表されるような「珍アイデアの新奇フーゾク系ビジネス」が話題を集めていた時期で、波賀さんはその「ゲイ向け版」をしたかったのかもしれない。
けれどもぼくは冒頭で述べたように「飲食業ではほぼポンコツ」だし、それより何より「地道にアルバイトするよりフラフラしていたい」と思っていたので、このオファーは丁重にお断りしたのでありました。

が、モノカキとなった今、「なんちゅーモッタイナイことをしたのだバカモン!」と、当時のグータラな自分の横っ面を2、3発ほど張ってやりたくなる。
「こんな良いネタになりそうな話を断るなんて、貴様はド阿呆か!? これはモノカキとしては万死に値する敵前逃亡だぞッッ」
あの時に「ハイやります」と云っておけば、ひょっとしたら本の1冊くらい書けるほどのネタを得られていたかも知れない……と悔やまれてならないが、当時はまだモノカキになるつもりなんかはなかったし、何よりも「幼かった」ので、まァ許してやってください(←誰にあやまってるンだろう?)

……と、ここでちょっと話がそれるのだが、ぼくのペンネームの由来であるレジェンド編集者「藤田竜」と共に『薔薇族』を起ち上げた「間宮浩」という人物がいた。
間宮さんは、初代編集長・伊藤文学氏が「ホモ文化の生き字引」と呼んだほどに博覧強記の人物で、ルポルタージュから小説まで達者にこなす才人でもあった。
『薔薇族』を退いたあとは、まだ黎明期だったゲイAVの世界にいち早く目をつけ、自分でメーカーを興して様々な作品をリリースしていった。

晩年は不幸にも認知症にかかってしまい入院を余儀なくされたが、そんな状態になってもなお、病院から文学氏のところへ「イイ企画を思いついた!」と連絡してくるほどの「生粋のクリエイター」だったという。
残念ながらぼくが『薔薇族』に関わりだした頃にはもう亡くなってしまっており、「もう一人の生きた伝説」に会えなかったことを悔しく思っていたのだが……後年、「じつは過去に遭遇していた」ということが判明したのであった!

……と、ここで再び話は80年代に戻る。
ぼくが間宮さんと「間宮さんとは知らないままに」遭遇したのは、さっきの「片っ端からモデルのバイトをしていた時期」なのであった。
その時の雇用主の中の1人が、どうやら間宮さんだった(らしい)のだ!

判明したのは、生前の間宮さんと交流のあった『薔薇族』のスタッフだった編集者との雑談の際。
たまた間宮さんの話題になって、「あ〜間宮さんねェ、ご存命のうちにいっぺんお会いしたかったですよ」とぼくが云い、「一体どんな感じの人だったンですか?」と訊ねたところ、その人は色々と教えてくれた。
風貌のこと、人柄のこと、住んでいたマンションのこと……アレコレ教えてもらっているうち、ぼくの脳裏に「過去に出会った、とある人物」の姿が浮かんできた。
「……あッ! それって『郷ひろみのオジサン』だ!」

「郷ひろみのオジサン」といっても、別に「郷ひろみと瓜二つのオジサン」のことではないし、ましてや「郷ひろみの父か母の兄弟」でもない。
写真撮影中、ぼくのことを「郷ひろみに似てる」と云い続けたオジサンのことなのである。

その人はシャッターを切りながら繰り返し云った。
「キミは『デビュー当時の郷ひろみ』に似てるねェ〜。あ、『今の』じゃないよ、『デビュー当時の』だからネ」
お世辞ならお世辞で、もっと単純明快なリップサービスをしてくれたらいいのに、間宮さんはなぜだか判らんけど「今のではなく、デビュー当時の」という部分にやたらこだわったホメ方をし続けたのであった。
その「素直には喜べないビミョーなホメ方」はぼくの心にずっとひっかかっていて、だから30年もの歳月を経てもなお記憶に残っているのである。

間宮さんがいまも健在であれば「なんであれほど『今のではなく、デビュー当時の』という部分を強調したンですか?」と訊いてみたいところなんですが、すでに鬼籍に入ってしまったのでその謎を解くことは叶わず……。
ひょっとすると、ぼくがカラオケに行くと必ず1曲は郷ひろみのナンバーを歌うのは、あの日の間宮さんのコトバが少なからず影響してるのかしらん?
 
ヒビレポ用イラスト(4)
 
 
 
-ヒビレポ 2015年4月24日号-

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