レッツゴー!町中華探検隊 第7回

kitao
阿佐ヶ谷から町中華が消えた!?

 
北尾トロ
(北尾トロ→下関マグロ→増山かおりの輪番連載)

 
 
 

01

北口の来々軒はつぶれ、自販機が入り口をふさいでいた。

 

 半澤隊員と阿佐ヶ谷で待ち合わせた。昼メシでも食べよう。軽い気持ちだった。しかし、我々は1時間歩き回り、たった3軒しか町中華を発見できなかった。北口の駅前にある『丸長』、旧中杉通りの『朝陽』、南口アーケード街の奥にひっそり存在する『天津』(ここで食事)である。
 これには愕然とした。まさか阿佐ヶ谷でこんな事態に遭遇するなんて予想もしていなかったからだ。後でわかったところによると、もう2軒ほどあるらしいけど、どちらも路地や南阿佐ヶ谷駅近くの発見しづらい場所のようだ。
 

 
02

朝陽はこの日、休みだったが、繁盛しているとのこと。

 

 先日、荻窪と西荻窪でそこそこの店数を確認。昔に比べたら衰え気味とはいえ、健在ぶりに安堵する気持ちがあったのだろう。独身時代に延べ8年ほど暮らした町なのだから間違いないとか、中央線だからという根拠なき信頼感や油断もあった。過信だ。阿佐ヶ谷の町中華、はっきりと衰退していると感じる。少ない上に場所も悪い。どうしてこうなったのか。
 新宿以西の中央線では吉祥寺の町中華が壊滅状態だ。昔はいざ知らず、この街はここ20年くらいかけて大資本をバックに持つチェーン店の天下となっている。北口の再開発で古い店は姿を消し、駅ビルもピッカピカ。家賃の高騰ぶりはすさまじいと聞く。阿佐ヶ谷はそこまで厳しくはないだろうが…。
 ぼくは阿佐ヶ谷の状況に震えがくるほどのリアリティを感じてしまう。以前から指摘しているように、町中華経営者の高齢化は容赦なく進んでいる。70代が多く、80代の方もけっこういらっしゃるのだ。そりゃ体力的にきついよ。中華鍋が軽快に振れなくなる。利幅の多い商売じゃないから後継者不足も深刻。
 いま70歳の店主が35歳で店を始めたとすれば、開業は1980年。80歳なら1970年。時代は高度成長期後半だ。
 戦前からあった老舗町中華(当時はそこそこ高級店)、戦後の混乱期にできた復興型町中華、1970年代に数を増やした脱サラ&2代目町中華。町中華の大半は、このいずれかに該当するとぼくは考えている。代替わりが上手くいかなかった老舗と復興型はすでに姿を消し、1990年代以降の不況によって脱サラ&2代目町中華は後継者不足にあえぐ。チェーン飲食店の登場やラーメン専門店の人気を目の当たりにした目端の効く店主は、バブル時代、早々に店をたたみ、駅前の一等地を明け渡したかもしれない。あるいは後継者が育たないまま中華鍋を振る勢いにかげりが生じて閉店してしまう。もう無理。もう粘れない。衰退の波に飲み込まれるように、阿佐ヶ谷から町中華の存在感が消えてしまったのではないか。

 直接のきっかけとなったのは、ぼくは1981年に中杉通り(北口側)が開通したことが大きいと思う。迂回路コースを走っていたバスが中杉通りを通るようになると、北口の様子も変わっていく。この機を逃さず、とばかりに駅前の小さな商店街がしゃれたビルに吸収された。南北を貫く中杉通りには新しい店が立ち並び、メインストリートを形成する。古くからやってる飲み屋やバーもずいぶん姿を消し、残った店は飲み屋街の奥のほうに固まっている。手前はというと目立つのはラーメン屋だったりする。
 ぼくは2014年初頭、そんなこととは知らずに町中華探訪を始めたんだが、いま思うときわどいタイミングだった。町中華が再び数を増やしたり、後継者が現れることはちょっと考えにくい。そうなると、町中華が町中華として輝きを放つのは、せいぜい5年か10年。時間がない。探検隊なんて言っていられるのもいまのうちだ。
 寂しいことではあるけれど、見方を変えると、すごくおもしろい時期だともいえる。もっと見つけたいし、食べたいし、店主の話が聞きたいし、町中華とは何なのかを考えたい。
 
03

 
 
 
似顔イラスト/日高トモキチ
 
 
 
-ヒビレポ 2015年5月16日号-

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