二代目『薔薇族』編集長の作り方 第8回

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飽きっぽい男

 
竜 超
(第19号で「ヤマジュン・コード」を執筆)
 
 
 
重度の中二病患者だった少年が、本邦初の同性愛マガジン『薔薇族』の二代目編集長になるまでを描く大河ロマン(自称)……今回は、ぼくが紆余曲折を経てゲイ小説を書きはじめるまでについて語ります。

再上京して勤めた版下会社を1年で辞め、ぼくは大手求人広告会社の契約クリエイターに転職した。
クリエイターの派遣会社に所属し、都内各所にある大手求人広告会社の営業所に常駐しながら広告を制作するのだ。
肩書は「コピーライター」だったが、必要な際にはデザイナーも兼任した。
いま活きている雑誌制作スキルの基盤は、その頃に築かれたのだろうと思う。

超好景気の当時はいずこの業界も人手不足だったため、求人広告業界は儲かって儲かって、も〜笑いが止まらない状態だった。
求人雑誌はどれも分厚くて、仕事は選びたい放題だったのである。
そんな状況下だったから、ぼくもソコソコの給与を得ていた。
とはいえ、同僚のように「1500円のランチ」を当たり前に食べる気分にはならなかったので、世間一般のバブル人ほどに経済感覚は狂っていなかったかとは思うンだけどネ。

学生時代は、たかだか300円の文庫本1冊買うにも店内で1時間以上「う〜〜ん……」と悩んでいたほどの赤貧BOYだったぼくが、おかげさまでハードカヴァー本でも躊躇なく買える程度の経済的余裕はできた。
それはそれで幸せではあったが、しかし「安定」は「タイクツ」とも読めるわけで……ぼくはそうした日々に飽きはじめていた。
いや、ゼータクな悩みだってのは百も承知してるンですよ。
でもやっぱり、飽きてしまったのだ。


 
ちょうどその頃、「アパートから歩いて通うのが困難な営業所」への異動が打診されたので、渡りに船とばかりに退職を申し出て、ぼくは「フリーのコピーライター」に転身した。
……といっても、営業活動はせず、友人経由で入ってくるわずかな仕事しかしてなかったから、実情は「フリーランスと名乗っている無職青年」だったンだけどネ。
やたらヒマだったので、毎日のように中目黒の図書館まで徒歩でテクテク通っておりました。
当時は1日に3冊ぐらいも、色んなジャンルの本を読んでたっけ……。

そんなダラ〜ッとした暮らしを1年ほど続けると、今度は「ヒマ」にも飽きだした。
金銭面もじょじょにキビシクなってきたしネ。
というわけでフリーの仕事に加えて、週に3日ほど版下作成のバイトをするようになった。
あと、フリーライターになっている契約クリエイター時代の友人に誘われて、巨大出版社の幼年雑誌のデザインのバイトもスタートさせた。

その友人がお世話になっているという「ライターの元締」に紹介され、彼らがメインで関わっている某メジャー雑誌のライターチームに誘われたこともあった。
しかし、その元締がどーにもいけ好かないタイプだったので、誘いは丁重にお断りした。
たとえどんなにギャラが良くても、好きになれない相手とはやっぱり一緒にやりたくないモンね。

小説を書き出したのは、まだ契約クリエイターをしていた時代からだ。
毎晩、夕飯を食べて銭湯に行ったあと、7時くらいからワープロに向かい、午前3時の時報が鳴ると同時に布団に入り、朝7時に起床して仕事に出る……という暮らしを始めたのだが、それは勤めを辞めてからも続いていた。

書いてたジャンルは、今で云うところの「ライトノベル」である。
それを選んだ理由は「流行ってるからデビューのチャンスが多そう」という、きわめて不純なものだった。
べつに書きたくて書いてるモノじゃなかったから、当たり前だが作品にはパッションの「パ」の字もなく、ストーリーは「どっかですでに読んだような感じのもの」である。
後年、当時の作品を読み返す機会があった。
「読みやすい文体でソコソコ面白く書かかれてはいた」けれども、「ソコソコ」の小説なんて売り物になるわけないよネ。

話を本筋に戻そう。
四畳半の老朽アパートだったから家賃は安く、複数のバイトの稼ぎだけでも食うには全然困らない状態だったけど、そんな生活にもまた「飽き」がきた。
気分がクサクサしてきたので、気分転換も兼ねてまたも実家に戻ることに決め、ぼくは足かけ7年住んだ恵比寿の街を後にすることになった。
もうすでに29歳になっていたが、あまり世間体というのは気にしないタチだったので、特にアセリは感じませんでしたナ。

そうそう、ぼくが引っ越す頃に、ちょうど「恵比寿ガーデンヒルズ」の工事が始まったっけ。
ゴーゴーとやかましく走り抜けるトラックの群れを眺めながら、「地上げのせいで抜け殻みたくなっていた恵比寿の街にも、やっと新しい時代が来るのかな」なんてことを、ぼくはボンヤリと感じていたっけ……。

実家に戻っても、運転免許を持たないぼくはマトモな職にありつけなかった。
東京都心以外の地域はたいていがクルマ社会で、たとえオフィスワークであっても免許は必須アイテムだったのだ。
仕方がないので「偽装派遣」の会社を通じて、アチコチの工場で働いた。
けど、先月は「菓子製造」、今月は「プラスチック成型」、来月は「クーラー製造」といった具合に、「1カ月スパンで全然違う業種の仕事をする」のだから、どれだけ働いてもスキルなんて身に付きゃしない。

唯一、良かった点といえば、「肉体労働をすると自分でもビックリするくらいイイ身体になる」ってことかしらん。
コピー機用のトナー精製工場で、500kgの重さのある巨大容器を運んでいたときなんて、「うわッ、ジム通いしたみたいなボディを金もらって作れるなんて超ラッキー」と風呂場の鏡の前で手を叩いたモンでありました。

そんな浮草暮らしを1年ほど送った頃、ある派遣先の工場で、社長があまりにクドいことを云ってくるモンだから、「ちょっと黙っててください。ちゃんと判りますから!」と、かなりキツ目の口調で云った。
その結果は「即、クビ」。
まァ、そこの社長は朝礼の際に「今度の選挙では××に入れるように」と、ものすごくアウトなことを当たり前の顔でおっしゃるような方でしたからネ。
だから、「とっとと縁切りができて良かったかな」と結果的には思いますが。

フツーならそこで落ち込むトコなんでしょうが、ぼくの場合は金のかからぬ実家暮らしだし、親も特にうるさいことは云わなかったし、ちょうど7月になったところだったンで、「よっしゃ、早めの夏休みにしよう!」と勝手に決めて楽しむことにした。
そこから3カ月くらいブラブラして過ごしたが、30過ぎの息子が朝から晩まで海で遊んでるのを黙認してくれた両親には心より感謝いたします。

やがて秋になって再び工場のバイトを始めたが、だんだんと「モノを書きたい」という欲求が高まってきた。
そこで月1本のペースで「小説」を書くようになった。
といっても今度はラノベではなく「ゲイ物」。
過去の体験に願望や妄想などを織り交ぜて書きはじめたら面白いように筆が進んだ。

書き上げた作品を、ゲイメディア界で唯一の小説誌である『さぶ』(サン出版)に投稿したら、なんと次の号にアッサリ掲載された。
その後も毎月色んなところに送ったが、かなりの高確率で採用に。
ある賞に応募して次点だったものを別の雑誌に送ったらすぐに採用されたので、採用率は100%だったネ。
ちなみにその「別の雑誌」というのは、後にぼくが引き継ぐことになる『薔薇族』なのでありました。

ゲイ小説は、稿料自体はさほど高くなかったけど、毎月数万円もらえることは有難かったですナ。
一度、100枚の作品を書いて送ったらすぐに前後編で採用されたのだけども、なんと「ギャラなし」で、貰ったのは「掲載誌」のみ。
後で聞いたら、そこは当時かなり経営が左前になってたようで、なんか『ガロ』みたいな発行スタイルになってたみたいなのです。

ゲイ小説を書きはじめたら、創作欲求がどんどん大きくなっていった。
とはいえ、実家にいたのでは「本式な書く仕事」にありつくことは不可能なので、三度目の上京をすることにした。
工場のバイトと稿料を貯めたナケナシの30万円だけを持って。
それは、クサクサして実家に戻ってから丸2年後の95年・夏……ぼくはもう31歳になっておりました。
 
 
ヒビレポ用イラスト(8)
 
 
 
-ヒビレポ 2015年5月22日号-

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