借りたら返す! 第8回

気絶するほど怒られた

 
海江田哲朗
(第12・13号で「劇団カクスコ 11年後のカーテンコール」執筆)
 
 
 
 僕にとってラッキーだったのは、大学を出た年、1996年6月に『PINK』(マガジンハウス)という女性誌が創刊されたことだった。編集長は棚橋芳夫さん。かつて『ダカーポ』でも編集長を務めたベテラン編集者である。

 棚橋さんは、僕が出版業界にもぐり込む入口となった人で、酒屋でアルバイトをしていたときにその息子と知り合ったのが縁だった。で、かくかくしかじかなんすよと相談に行き、意味不明な熱意を込めた手紙をしたため、「おまえな、こういう手紙に会社の便せんを使うなッ」と早速どやされたりして、それでも拾ってもらったことで僕のライター生活はどうにかこうにかスタートを切ったのである。

 最初の仕事は、わたらせ渓谷鐵道の取材だった。別の担当編集の方は新人ライターを押しつけられて大変だっただろうが、あちこち行かせてもらい、とにかく場数を踏ませてもらった。

 ライターの前に、社会人としてなっておらぬわと僕をしつけてくれた棚橋さんから、「こいつの面倒を見てやってくれ」と頼まれたのが、『ダカーポ』などで書いていたノンフィクションライターの古木杜恵さん(男性)である。

 そうして僕は、古木さんからライターの仕事のいろはを教わることになる。とても厳しい人で、えっこんなに怒られんの? っつうくらいこてんこてんにされた。その怒りっぷりは烈火のごとく、いっそぶん殴ってくれたほうがマシだとさえ思った。気絶するほど容赦のない怒気に接したのは、後にも先にもない。


 
 仕事を離れれば親しみやすい人柄で、自身の追いかける沖縄米軍基地問題をはじめ、さまざまな話を聞かせてくれた。僕の話については、「おまえは暗いな。いまどきATG(日本アート・シアター・ギルドの略。60〜80年代にかけて非商業的な映画を数多く製作・配給した)か」、「安っぽいヒューマニズムは捨てろ」と一蹴されることがほとんどだった。

「おれもおまえも生活者だからな。ヘタしたら共倒れだぞ、バカヤロー」と古木さんは言いつつ、アシスタントのような形で現場に同行させてくれた。1997年1月に起きた、ロシア船籍のタンカー「ナホトカ号」重油流出事故の取材は『放送文化』(NHK出版)の仕事だった。たいして戦力にもならないのに編集部に話をつけて日当を出してもらい、大変ありがたかった覚えがある。

 僕が移動中の電車で本を読んでいたら、「取材に行く10分、15分前は、いまから会う人のことだけを考えろ」。書き上がった原稿を見せると、「かっこつけて、いいふうに書こうとするな。肩の力を抜け」。古木さんから言われたことは、僕がライターを職業とするための骨子となった。

 その後、古木事務所というライター集団で、いろいろな雑誌の仕事を請け負うことになり、僕も下っ端としてまぜてもらっていた。ほかの先輩ライターにも何かとお世話になった。

 と同時に、いつまでも古木さんにぶら下がっているわけにもいかないので、人から仕事を紹介してもらったり、情報誌の仕事をこつこつ開拓した。稼ぎの足りない月は日雇い労働で補った。そんな生活が、2、3年つづいた。

 そのうち、僕ははたと気づくのである。この先、専門分野を持たないことにはライターをやっていけないぞ。そもそも自分は何を書きたいんだっけと。あまりにも遅すぎる目覚めだった。私生活ではほんの軽はずみに所帯を持ち、毎日デートしてるみたいだなあといい気になって暮らしていたが、サラ金に主にギャンブルでこしらえた借金が50万くらいあったし、いつまでものほほんとしていられないのはわかっていた。

 情報誌の仕事は数をこなせばまとまったお金にはなった。たとえば焼肉特集なら、友だちを連れてリサーチに行く段が一番楽しい。経費は編集部持ちだから気楽なものである。ところが、いざ取材となって、1日に4軒も5軒も回るのは苦行だった。食に対し、そこまで深い探究心を持ち合わせていなかった。夏は焼肉、冬は鍋と温泉、そういったルーティンにも飽きつつあった。

 転機となったのは、Jリーグきっての人気クラブ、浦和レッズが2000年にJ2に降格したことだった。マガジンハウスに熱狂的なレッズサポーターがおり、その周辺からムック本製作の企画が持ち上がった。好都合なことに、別の部署に移っていた棚橋さん(浦和在住)が乗り気で、この仕事を引き受けるという。ならば、僕もサッカーは好きだから、いっちょかみさせてもらおうと真っ先に手を挙げた。このときの編集者は横浜フリューゲルス(1998シーズンを最後に、横浜マリノスに吸収合併され、横浜F・マリノスとなった)のファンだった坂脇秀治さん。この方にも仕事の作法をいろいろと教わることになる。思えば、人に助けられてばかりの歩みだなあ。これをきっかけに、僕はライター業の軸足をサッカーに置いた。

 その一方、古木さんとはすっかり疎遠になってしまった。一緒に仕事をさせてもらう機会はなく、気軽に連絡できる間柄でもない。決定的な不義理をしでかしたわけではないが、10年以上もご無沙汰している気まずさはずっとあった。

 さて、あのとき受けた恩義をどうしてくれようか――。古木さんにそのつもりがなくても、僕のなかにはくっきりとした感覚が残っている。理屈としては、自分がしてもらったことを後進に受け渡していくことで世の中は回っているんだけど、このままほったらかしていいものでもあるまい。

 こちらは相も変わらず不肖の身であり、いまいちぱっとしない現状で久しぶりの連絡となるのが残念だ。「おかげさまで」と言ったところで説得力がないし、かえって失礼に聞こえやしないか。とはいえ、古木さんは僕より24歳上だったから、現在66歳。大酒飲みで、煙草もバカバカ吸う。摂生とは無縁の人だった。高校時代は花園にも出たラグビー選手とあってタフガイだったが、いい加減身体は年齢相応のガタがきているだろう。何かあってからでは手遅れだ。正直、自分がぱっとするのを間に合わせる自信がない。

 まずは相手が電話に出るかどうか。……出ないね。留守電にもならない。若干ほっとしていたら、すぐに折り返しがあった。第一声は「おう、どうした?」とけっこうあっさりしていた。聞きなれた、砂利みたいにしゃがれた声だった。

 
 
 
-ヒビレポ 2015年5月25日号-

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