借りたら返す! 第10回

そこそこ心配をかけた

 
海江田哲朗
(第12・13号で「劇団カクスコ 11年後のカーテンコール」執筆)
 
 
 
 特別、孝行息子ではないが、これといってインパクトの強い親不孝をしたこともない。父、母、僕と弟の4人家族。ひとつ屋根の下で生活し、互いにかまったり、かまわれたりしながら、人並に親子関係を築いてきた。

 両親の庇護のもとにあり、自分では過失を負いきれないと思い知らされたのはいつだったか。もっとも古い記憶は小学5年生のころ。当時、週刊少年ジャンプ(集英社)に連載されていた高橋陽一の『キャプテン翼』が大ブームで、ご多分に漏れず僕も魅了されたひとりだった。ボールは友だちである。学校の行き帰りはもちろん、寝床や風呂場までボールを持ち込む。紺地に金刺繍のプーマの帽子を被ってたな。そんなサッカー少年のひとりだった。

 ある日、僕はいつものようにボールを蹴りながら帰っていた。たまたま母も一緒だった。壁に蹴ったボールが妙な具合に跳ね、緩やかな坂道をコロコロ転がっていった。坂下から、おっさんの乗ったスクーターがブイーンとやってくるのが見えた。スピードはのろい。見晴らしのいい直線道路だ。よけてくれるだろうと思ったが、あろうことかボールの軌道に入ってくる。えっ、うそだろ? スクーターはまるで計ったように乗り上げ、激しく横転した。


 
 母が何事か叫びながら駆け寄った。むくりと起き上がったおっさんは、ひじと足の甲から流血していた。おもむろに煙草に火をつけ、その顔にはやってくれたな小僧と書いてあった。いまだったら芝居がかった仕草にちょっと笑ってしまうだろうが、子どもだった僕はすっかり震え上がっていた。

 自分がもっと大人だったらと思う。こっちが悪いのは認める。だが、あんたも乗り物を運転していて、かかとのないサンダル履きというのはどうなんだ。警察の立ち会いを頼みましょうくらいは言えただろう。おっさんは運転業を生業としており、複雑な手続きのない示談を求めたらしい。その晩、父がおっさん宅を訪問し、詫びを入れた。示談費用は10万円だったと聞いた。とんでもないことをしでかしたと、家でしょんぼりした。無力だなあと思った。

 高校では、学業不振で両親に心配をかけた。自主映画制作に夢中になり、福岡高校生映画祭なるイベントの立ち上げに参加。他校の友だちもでき、楽しくてしょうがなかった。勉強をほっぽり出し、当然成績は急降下。学年順位の地を這うありさまだった。

 中間テストや期末テストの成績表は、親にサインをもらって担任の先生に戻す決まりだった。到底見せられる代物ではなく、隠しとおすことに腐心した。

「言葉もありません」
「ヤマが外れてしまったようです」
「調子が悪かったんだと思います」

 などと、字のきれいなクラスの女子に代筆してもらい、ハンコを勝手に押して提出した。それでも露見が避けられないときがある。年に一度の三者面談だ。父と母は文字通りの針のむしろだったと思う。大方わかっていたはずだが、我が息子が想像を絶するほど低い位置にランキングされており、また担任も容赦なく悪しざまに言う。度を越した劣等生ぶりが哀れを誘ったのか、両親は僕を焼鳥屋に連れて行き、「次がある」と慰める始末だった。

 学業と部活のアンバランスについては、家庭内で事あるごとに揉めた。テスト前、今日は机の前から離れないと高らかに宣言し、頃合いを見計らってこっそり抜け出した。撮影が長引いて遅くなり、家に入れてもらえなかったときは外で寝た。「学生の本分は勉強である」という両親の言い分はいちいちもっともだったが、言ってわかることなら初めから苦労はない。熱に浮かされっぱなしで、3年の夏に部活を引退するまで軌道修正はままならなかった。

 以上、この程度のことは親子間に生じる問題でかわいいものだろう。当時の出来事を両親は笑って振り返り、僕もせめてもの穴埋めとしてそれなりにいい行いをしているはずだ。たぶん。

 やがては親の庇護から離れ、自立しなければならない。そんなの人並にできるさとたかをくくっていたのだが、これがすんなりとはいかなかった。
 
 
 
-ヒビレポ 2015年6月8日号-

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