借りたら返す! 第11回

立ちどまらなければ

 
海江田哲朗
(第12・13号で「劇団カクスコ 11年後のカーテンコール」執筆)
 
 
 
 大学生となった僕は、ここぞとばかりに羽を伸ばした。所属する放送研究会の活動や塾講師のバイトにかまけ、ろくすっぽ授業に出なくなった。同じクラスに空き時間を過ごす程度の友だちは何人かできたが、互助を目的に履修科目を合わせるのは性に合わなかった。それなら余計にしっかりしなければいけないのに、部室でごろごろしたり、喫茶店に入り浸った。ありていにいえば、怠けたのだ。それも徹底的に。

 流れとしては、最初の2年間で教養課程をクリアし、3年から専門課程に入る。教養課程の単位を取りこぼしまくった僕は、2年生を都合3回やることになった。一度目の留年は単位が全然足りずに早々とあきらめた。だが、二度目はそれなりに対策し、授業もわりと出て、テストで持ち得る実力を発揮したうえでハネられた。

 そうして迎えた大学4年目の春、学内をスーツ姿で歩く同期の連中をたまに見かけた。就職活動を行い、社会に出る準備を着々と進めているのだ。僕はといえば、長田弘さんの詩集を手に取っていた。


 
 立ちどまらなければ
 ゆけない場所がある。
 何もないところにしか
 見つけられないものがある。

『世界は一冊の本』(晶文社)に収録された「立ちどまる」という詩の一節だ。長田さんは怠け者を慰撫するために言葉を紡いだつもりはないだろう。やむにやまれぬ事情を抱えた人が次の一歩を踏み出すために、この世にぽんっと置いてくれた。

 これを自分の都合のいいように解釈するのが、僕のじつにタチの悪いところである。そうだ、あえて立ちどまるのだ、と。その気になれば前に進めないこともないのだが、ここはぐっと堪えて一時停止。ちょっと前まで3年生に上がりたくて躍起になっていたのはどこへやら。詩にすがりつき、自らの立場を正当化しようと試みた。

 とっくに成人しているのだから、立ちどまるなり、うずくまるなり、寝転ぶなり、好きにすればよい。ただし、自分の責任でどうにかしろというのが筋である。親のすねをかじっている身分では、主張する資格はない。真面目にやれ、のひと言で片付けられる。

 このへんの自覚がまるで乏しかった僕は、卒業までに都合6年を費やし、親には2年分の学費約160万円の負担を余分に強いた。堪忍袋の緒が切れた父に、「ちゃんと返すよ。返せばよかろうもん」と苦しまぎれに言い放ってから、20年の歳月が流れている。催促がないのをいいことに、びた一文返していない。取材で大学生のサッカー選手に話を聞くと、なかには奨学金の貸与を受けて進学した者がおり、わが身との違いを思い知らされ腹の底がすっと冷えた。

 耳をそろえて160万を用意できるなら、それがいちばんスッキリする。が、あいにくいまは財政的に無理だ。とりあえず、これを機に態度を表明し、道筋をつけたい。いやしかし、寝た子を起こすようなことをして大丈夫か。ほんの軽い気持ちで話を切り出して、「待っておったぞ、テツロウ」と年老いた父に先走られたら目も当てられないぞ。

 そんな折、名古屋で暮らす弟夫婦がゴールデンウィークに実家に行くと連絡があった。両親は埼玉県朝霞市におり、こちらもできるだけ都合を合わせ家族で集まるのが常となっている。いい機会じゃないか。あらたまって話をするには、証人がいたほうが望ましい。

 時を同じくして5月3日、長田さんが東京都杉並区の自宅で逝去されたと僕が知ったのは少しあとのことである。

 
 
 
-ヒビレポ 2015年6月15日号-

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