月に吠える的日記@新宿ゴールデン街 第5回

小僧の神様

コエヌマカズユキ(第4号で「デスマッチ・ブルース」執筆)

 

 売れない役者の西岡君(30)は、いつも麦焼酎の水割りを一杯だけ注文する。そして時間をかけて空にし、氷が溶けきった水も飲みほしてから、ようやく席を立つ。お会計はいつも決まって1,200円だ(「月に吠える」はチャージが500円、ほとんどのドリンクが700円)。これを上回ることも、下回ることもない。
「マスター、俺、そろそろ帰るね。はい、お会計」
 この日も水割りを一杯だけ飲んだ西岡君は、2時間ほど過ごして腰を上げた。料金を告げる前に、1,200円が差し出される。
「そう、こないだ、事務所の稽古にゲストの先生が来てくれたのよ。顔見たら、演劇学校に行ってたときの同期だったんだよね!おお、お前じゃん、って二人とも驚いて。聞いたらそいつ、有名な劇団とか映画にもバンバン出てて、演技の講師とかもやってて、ちょー出世してんの。こっちはまだまだ食えてないのにさ、本当ヘコむよね」 
 名残惜しいのか、西岡君は支払いが終わっても帰ろうとせずにほかのお客様を笑わせ、そしてようやくノロノロと店を出ていった。まだまだ酔い足りない様子だが、小さな事務所に所属して役者活動をしながら、夜間清掃のアルバイトで生活費を稼ぎ、身体が弱い母と二人暮らしをしている彼にとっては、週に一回・水割り一杯の晩酌が精一杯の贅沢なのだろう。一杯で長く過ごされても、彼を迷惑だと感じたことは少しもなかった。むしろ、貧乏な売れない役者という境遇をネタにする明るい性格で、いつも場を和ませてくれるとてもいい客だった。

 とある平日の遅い時間。その日、客は西岡君一人だけだった。彼が某テレビCMのオーディションで、いいところまで進んでいるという話を聞いて盛り上がっている途中、50歳くらいの男性がやって来た。初めてのお客さんだった。縦じまの洒落たシャツにスラックス、黒々とした髪の毛。背が高くて何ともスマートな身なりだ。
「こんばんは、一人だけどいいですか?」
「もちろんです。どうぞお座りください」
 穏やかな言葉遣いと笑顔の男性は、椅子に座った。カウンターの本棚から中上健二の本を手に取り「中上健二さん。よく見かけましたねぇ」とつぶやく。「えっ、この辺りでですか?」と西岡君。壁を作らない性格の彼は、すぐさま身を乗り出して男性と話し込み始めた。男性は正体を明かさなかったが、ゴールデン街には数十年間通っているそうで、名だたる作家や演劇人、文化人たちとの色々なエピソードを披露してくれた。西岡君はその一つ一つにため息を漏らして感嘆しながら、自分が売れない役者であることをネタに、男性を笑わせた。
 小一時間ほどが過ぎ、西岡君がトイレに立つと、男性は小声で言った。
「彼にボトルを入れてあげてください。料金は私に付けておいて。ボトルは私が帰った後に出してくださいね」
「…いいんですか?」
「もちろん」
 男性は笑顔でうなずく。西岡君がトイレから戻ってしばらくした後、男性は会計を済ませ、「じゃ、お先に」と何食わぬ顔で去っていった。僕はいつも西岡君が飲んでいる焼酎の新品のボトルを差し出した。
「ん? 何これ?」
「実は……」
 彼が驚き、狂喜したのは言うまでもない。その夜、西岡君は自分のボトルで水割りを3杯飲んだ。
「今のおじさん、何してる人なんだろう。やっぱり社長かなぁ。すごいキレイな恰好してたもんな。あぁ、お礼言いたかったなぁ……」
 西岡君がそう呟くのを聞きながら、僕は志賀直哉の小説「小僧の神様」を思い出した。

 丁稚奉公の小僧が、主人から交通費としてもらった四銭を使わずに、大好物のお寿司を食べようとするが、値上がりしていたために食べられない。すごすご帰っていく姿を見ていた貴族議員が、小僧を可哀そうに思い、後日偶然を装って再会し、寿司を腹いっぱい食べさせてやる。大満足の小僧は、感謝しながらも、こう思う。あの人は何者だろう。まさか、神様なのではないか?……と。オチは意外とブラックなのだが、「小僧の神様」はおおむねこのような話だ。

 男性はその後も、何度か店に来た。いつものように穏やかな態度で、紳士的に酒を飲んだ。西岡君も相変わらず店に来ていたが、タイミングが重ならず、二人が顔を合わせることはなかった。そのまま1ヶ月ほどが過ぎ、男性は急に姿を見せなくなった。
「マスター、あのおじさん、最近来る?」
 西岡君は来る度にそう質問し、僕はその度に首を振る。
「そうか、残念だなぁ。また会いたいなぁ。俺も金持ちになったら、若い役者志望の奴に、正体を明かさずボトルをおごってあげよう」
 西岡君はボトルの焼酎を大事そうに飲みながら、よくそんなことを口にした。あの男性の粋な振る舞いに、すっかりほれ込んでしまったようだ。
 僕は言うかどうか迷っている。あのおじさんと二人になったとき、明かしてくれた事実。男性の全身には癌が転移し、余命宣告をされている状態だということを。
「あの人は神様だったんじゃないか、とか俺も言われたいなぁ。ねえ、それって格好良くない? タイガーマスクみたいじゃない?」
 西岡君は笑顔でそう言う。彼がどこかの小僧の神様になれる日は、いつだろう。少なくとも「月に吠える」にとっては、神様のように大事なお客様だ。

<先週の売り上げ>
10月15日(月)5,650円
10月16日(火)3,300円
10月17日(水)8,400円
10月18日(木)15,560円
10月19日(金)35,600円
10 月20日(土)30,320円

合計98,830円

-ヒビレポ 2012年11月2日号-

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