「食い物の恨み」は消えず 第1回

カツ丼は丼の蓋をあけて食べたい!

 
下関マグロ(「新宿の穴」連載中)
 

 
 小学校5年生のときの話だ。貸本屋へ行こうと歩いていると、急に雨に降られた。すぐ先に川口屋というスーパーがあって、そこの店先へ雨宿りをするために入った。そこには先客が2人いた。身長差がある二人で、ひとりは、僕より少し年下、小学校の3、4年生くらい。もうひとりは僕より年上で坊主頭に中学生の制服を着ていた。二人は知り合いのようで、その話の内容から同じ新聞配達のアルバイトをしていることがわかった。小学生が中学生を見上げながら「オレはオヤジさんから、菓子をもらったよ」と自慢げに話した。オヤジさんというのは、新聞販売店の主のことをさしているようだ。これを受けて中学生は「オレなんかこの前、かつ丼おごってもらったぞ」と言った。これを聞いた小学生は、相手の顔を見ながら思わず、生唾を飲み込んだが、言葉は発しなかった。僕も生唾を飲み込んだ。それから、また話をはじめ、雨が小降りになったところで、2人は去っていった。このときのシーンが僕の頭の中に焼き付いている。

 そして、その話を聞いてから、僕は、あのときあの話に出たカツ丼はどんなものなのだろうかと想像してみた。というのも、それまで僕はカツ丼を食べたことがなかったからだ。ただ、テレビで見たことがあった。とはいえ、まだ家のテレビが白黒だったのでカツ丼はモノクロであった。川口屋の近くにさびれた食堂があった。店の前にサンプルがあって、そこにカツ丼はあった。そのサンプルは、丼にその蓋が添えられていて、なかには真っ黒い物体が入っているだけだった。サンプルのカツ丼もモノクロ状態だった。それでも僕の中でカツ丼のイメージが膨らんだ。

 その後、僕はカツ丼を食べるチャンスはあったが、食べなかった。理由は僕はトンカツが嫌いだからだ。ここまで読んで、なにぃ、どういうことだ、想像の中でカツ丼の美味しさが増幅していただろうと思われる読者もいるだろう。そう、想像の中のカツ丼は盛り上がるのだけれど、現実では僕はカツ丼が苦手だった。牛も鳥も豚もそうなのだが、脂身が好きではない。すき焼きやステーキなら、最初から脂身が見えているので、取り除いて食べることは可能だが、トンカツはどこが脂身でどこが赤身なのかがよくわからない。それで、かぶりついては、こ、これはいかんとブルーな気分になる。その苦手なトンカツがのっているカツ丼なんて進んで食べようという気は起こらなかった。

 とはいえ、大人になって味覚が変わることもあると思って、たまにチャレンジするがやはり無理だった。ところが、これはいけるのではないかというトンカツに出会うことがあった。それは、大学受験に失敗し、広島市内の予備校に通っているときだった。金のない浪人生の僕たちはよく、広島市役所の食堂へ昼飯を食いに出かけていた。とにかくここは安かったからだ。そして、トンカツを見たとき、これはいけるのではないかと思った。トンカツが薄いのだ。コロモがほとんどで、中の肉は薄い。もともとトンカツのコロモは好きだ。とんかつソースのかかったコロモはもっと大好きだ。食べてみたら、やはり大丈夫であった。ならば、ここのカツ丼はいけるのはないだろうか。僕はそう思い、人生初のカツ丼にチャレンジした。カツはトンカツ定食でも同じなのだが、作りおきされている薄いカツ。ご飯の上に切ったカツをのせ、ちょっと濃いめのダシをいれたかき卵をかける、それだけのカツ丼だった。うまいと思った。でも安くはない。いつも食べていたのは130円のカレーライスで、カツ丼の値段は忘れてしまったが、その倍以上したように思う。ある日、僕はパチンコに負けて、まったく金がなかった。親からの仕送りはまだ先で、昼飯時も教室に残っていたのだが、吉田君が「あれ、飯いかないの?」と声をかけてくれた。金のないことを告げると、彼は笑いながら「なんだ、おごってやるよ」と言うので、吉田くんや他の仲間といつもの市役所の食堂へ行った。「なんでも好きなものおごってやるぞ」と言われたので、思わずカツ丼と言ってしまった。それにしてもどうして吉田くんが僕にカツ丼をおごってくれるのかよくわからなかった。僕と吉田くんとはそんなに親しいというほどではなかったからだ。そんなことを考えながらカツ丼を食べていると、ご飯がぼやけて見えるではないか。涙が自然に出てきているのだ。なんだかわからないが、カツ丼を食べれば食べるほど泣けてきた。
 よく生涯でもう一度食べてみたいものはなにかという質問があるけれど、僕がもう一度食べたいのは、吉田くんがおごってくれた広島市役所のカツ丼である。
 
四谷荒木町にある鈴新のカツ丼。
カツを煮るヴァージョンと煮ないヴァージョンがある。
これは煮ないので、サクサク感がある。
http://www.suzushin.jp/
 
 
 
似顔イラスト/日高トモキチ

 
-ヒビレポ 2013年1月5日号-

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