「食い物の恨み」は消えず 第2回

生涯でいちばん旨かった食い物

 
下関マグロ(「新宿の穴」連載中)
 

 
 食い物の恨みは怖いとよくいわれる。食べたものより、食べなかった、あるいは食べられなかったものに人は執着するからだろうか。
 テレビでタレントがおいしそうに食べているのを見ると、その店のその料理が食べて見たくなるのもそのひとつかもしれない。しかし、最近はあまりに多くのタレントがいろんなものを食って「まいうー」だの「宝石箱」だと言うので食傷気味だったりする。

 しかし、タレントではない人がなにかをテレビで旨そうに食っていると、こちらとしては油断しているので、うっかりハマってしまう。たとえば、昨年の自民党総裁選のときにただ黙々とカツカレーを食べる安倍晋三の映像が流れたのだが、そこに映されたカツカレーが気になった。どうやら3500円もするカツカレーなのだそうだ。いったいどんな味なんだろう。食べてみたい、そう思ったのは、僕だけではなかったようで、ネットではその翌日、ホテルニューオータニのレストランでカツカレーを食べ、その画像をアップしている記事やブログがあった。なるほど、こんなカツカレーか。自分もちょっと食べに行きたいと思っていたら、その後、どうやら、これは安倍晋三の食ったカツカレーはこれではないという情報が出ていた。あれは、宴会場を利用した人のみに出される特別なカツカレーなのだそうだ。再びハードルが高くなった。そうなればなるほど、食いたい度合いが上がってくるから不思議だ。

 目で見たものもそうだが、話を聞いただけのものがずっと脳内に残っていることがある。小学校5年生のころのことだと思うのだが、母親に「これまで食べたなかでいちばんおいしかった食べ物は何?」と聞いたことがある。母親は少し考えて「あるよ。料理の名前はえーっと」と思い出しているのだけれど、出てこない。じゃ、どんなものかと聞けば、「お肉とか野菜をねぇ、炒めて、こー餡にして、パリパリの細い麺にかけたものかしらねぇ」と言った。食べた場所を聞けば「はっきり覚えちょらんけど、どっかデパートの食堂で食べたような気がする」そうだ。僕はあれこれ考え「それは焼きビーフン?」と聞いてみた。焼きビーフンは給食のメニューで出てきたので、知っていたのだが、母親は即座に否定した。「麺はね、油であげてあってね、パリパリなんよ。でも、時間がたつと、餡がしみてきて柔らかくなるんよ」という。なんだか聞けば聞くほどに、自分のイメージの中では、うまいもののように思えてきて、そのことが頭から離れなかった。ことあるごとに、どんなに美味しいものなんだろうかと想像を巡らせた。
 それから、10年後くらいのこと。大学生になった僕は大阪で下宿をしていた。その時住んでいたアパートの前に「長崎ちゃんぽん」の店があった。まだ新しい店で、出来たばかりだったようだが、住宅街の中にポツンと建っているお店で、客はいつもいなかった。とはいえ、まん前のなので、一度、おそるおそる店に入った。夜であった。店内に他の客は誰もいない。メニューは、ちゃんぽんと皿うどんしかなかった。ちゃんぽんは知っていたけれど、皿うどんというのは知らなかった。で、これを注文し、初めて食べた。食べながら、ふと、昔母親が言っていた、生涯でいちばん旨いものって、これじゃないかなって思った。餡かけの野菜や肉、それにこのパリパリの揚げ麺。きっとそうに違いない。何度か食べるうちにだんだん確信した。当然のことながら、想像のほうがおいしそうだったけれど、現実で食べる皿うどんも嫌いではなかった。
 そして、帰省した折に聞いてみたら、「そうそう、皿うどんじゃったね」とあっさり認めたというか、さほどの感動もなさそうだった。拍子抜けだった。母親は母親で、すでにそれが皿うどんであることがわかり、何度か食べたのだろう、そして、その口ぶりでは皿うどんは生涯でいちばん旨いものではなくなっていたような気がした。気が付けば、あちらこちらに皿うどんを提供するお店は出来ていたのだが、いつでも食べられると思うと好きの度合いも下がるのかもしれない。

 僕はといえば、一時この「皿うどん」が好きで、あちらこちらで食べた。明大前に住んでいたときは、やはり駅の近くに長崎ちゃんぽん専門店があった。やはり母と同じく、最初はパリパリと歯ごたえのある麺がそのうち柔らかくなってくるこの料理が好きだった。ところが、だんだんと皿うどんよりも汁のあるチャンポンのほうが好きになる。あるとき、散歩の途中で新宿2丁目にある「長崎亭」という店に入った。中学生ぐらいの女の子がテーブルで宿題をやっていたり、猫がいたりする不思議な店だった。店主は長崎出身のおばちゃんで、最初はちゃんぽんを食べた。けっこうおいしかったので、数日後、再び訪れ、今度は皿うどんを注文した。すると、おばちゃんは、「普通の麺でいいですか?」と聞く。普通の麺とはなにかと聞き返すと、ちゃんぽんの麺に餡をかけるのが一般的な皿うどんなのだという。「揚げた麺もありますが、もともと長崎では代用食だから」というではないか。つまり、本当はチャンポンの麺を食べたいのだが、それがないときに揚げた麺にするのだそうだ。それが普通の麺ということになる。その普通の麺にしてもらった。ちゃんぽんの麺に餡をかけている皿うどんだった。ああ、これはうまい。ちゃんぽんもいいが、この皿うどんもいい。

 考えてみれば、僕が母親から最初に皿うどんの話を聞いたのは、まだ母親が30代だった。そして、次にさほど皿うどんがさほど好きではなくなった感じさせたのは40代。なるほどなぁっと思った。僕も揚げてパリパリの麺よりは普通の麺のほうがよくなったのも40代の頃だ。好物が年齢と共に変わることがあるんだということを最近になってよく感じる。とくにあの皿うどんのパリパリ麺は、歯の弱くなった最近はとくに食べなくなってきたのだ。
 

 昔の写真を見ていたら、自宅でチンしてこんなものを食べていた。

 
 
 
似顔イラスト/日高トモキチ
 
 
-ヒビレポ 2013年1月12日号-

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