しまぶく道場 第2回

しまぶくバックレ?

 
 
えのきどいちろう(第10号で「活字とラジオ(とテレビ)はこんなに違う」を執筆)
 
島袋寛之(第6号で「ホームレスの食卓」を執筆)
 
 
 
 NONO しまぶく! こないだの原稿はまとまってない上に誤解がある。まだまだしまぶくだなぁ。「ろ」はつけてやれんよ。ま、全体に「緊張してる」か「単にごますり」かどっちかの部分を割愛するとだね、吉野歩さんと山下陽光さんを一緒にしてるとこがしまぶくだと思った。2人はぜんぜん違うタイプのプレーヤーだよ。長所も短所もぜんぜん違う。しまぶくの書き方は「あの人たちと自分」「えのきどさんと自分」って切り分け方なんだ。自分にしか興味ないんと違うん?(笑)。

 基本的に「自己表出」型の男は他人に興味ないよね。僕も若者の頃、そうだった。エネルギーがあり余って、自分のことだけに神経を集中させている。「自分のなかで…」とか「自分的には…」とか言ってなぁ。ま、ナルシズムなんだね。酔ってる。酔いがさめると凹むから集中力長続きしません。僕は幸い女のコが好きで、もうおっぱいさわりたくて必死だったから、おっぱいさわりたい一心で他人(というか女子)にアプローチしたんだね。で、「他人は自分と違う」という重要なことを学んだ。自分と違うことを感じたり考えたりする人がいる(!)。当たり前だけどね。

 自分にしか興味のない状態だと小説とかあんまり読んでも入ってこないね。他人の人生について書いてあるから。それはそれでしょうがないんだ。しまぶくは小説読んでるほうだよ。

 んーと、こないだのしまぶくの誤解のいちばんは「肺活量」の話だ。しまぶくは自己に拘泥するあまり、「対象を見つける」「対象へ走る」「対象にこだわり、考え続ける」「それを書く」をごっちゃにしている。しまぶくの集中が続かない話なんてどうでもいいんだ。僕が(川内有緒さんに言った)「肺活量」の話は「それを書く」の部分だね。

 読み書きはどっちもそうなんだけど、息が続く人とそうでもない人がいる。知り合いで「最近、ツイッターばっかりしてて、本読もうと思ったら読めなくなっていた。本読むって筋力いるじゃないですか。で、筋トレするようにちょっとずつ本に復帰して、続けたらやっと前みたいに読めるようになりました」って言ってる人がいたんだけど、思考や情感を長くキープする筋力がないと本読めないよね。ま、これは「息が続かないタイプの読書家」(何度もパタンと本を閉じて、もの思いや考えにふけったりする。僕はわりとそうです。情報処理能力は明らかに遅い)は別にしての話だけど。

 書き手にも息が続く人がいるんだ。僕が典型例だと思うのはスティーブン・キングだけどね。ひとつのポケットからずーっと話が持っていける。持続力がハンパない。主に怖い感じやイヤな感じ、違和感みたいなものだけど、そのひとつが何万字も引っ張れる。饒舌とかいうのとも違うんだ。意識の流れ、思考、情感がキープできる。川内さんにもそういうタイプの持ち味があるねって話。

 長い原稿と短い原稿は書き方が違うんだね。「神保町のボンディのカレー旨い!」とツイートするところを、800字で書くのと50枚(2万字)で書くのは違うでしょう。800は俳句に近いよね。「菜の花や 月は東に 日は西に」は蕪村だけど、こういうのが理想。ボンディのカレーにフォーカスして、次に違うイメージとか情報を、まぁ、映画のモンタージュみたいにぶつける。野球的に言ったらファインプレーが欲しい。

 50枚は「 月は東に 日は西に」しょっちゅうやってたら読む人が疲れちゃうんだ。ずーっと持ってく肺活量が必要。情報とかじゃなくて、感じのキープだ。表面は情報を書いてもトーンというか、通奏低音みたいなやつはキープだ。それぞれ巧い人がいるからそれを見るといいよ。ちなみに北尾トロさんは30枚がベスト。30枚使わせて、旨いカレーのこととか書かせたら出色だね。 (121223 榎)

 
 で、本来はここからしまぶくの原稿なんだけど、申し訳ない、原稿が来ない(!)。えーと只今、大晦日の19時過ぎです。もうすぐ紅白が始まる。いや、紅白は見ないけど、僕が楽しみにしてるダウンタウンの「絶対に笑ってはいけない」は始まってる。で、事態はどうなってるかというと、「さっきから4回くらい電話してるけど、しまぶくが電話に出ない!」なんだね。驚愕です。バックレです。

 昨夜、嫌な予感がして、夜、メールしといたんだね。
 「 しまぶく遅いよ〜。明日、締切だよ。もうちょっと早く上げなよ」
 編集の平野さんから年末年始カンケイなく月曜締切って聞かされて、こう紅白やってる頃にまだ原稿書いてる自分が何となく見えた。この連載は月曜「しまぶく分を受け取ってから全体の仕上げをして、平野さんに送稿」&「次回分を早々に書き上げて、しまぶくに少しでも書く時間をあげる」だから、しまぶくの返りが遅いとカウントダウンしてる時刻に机に向かう感じになる。

 そしたら大晦日の午前10時14分、しまぶくからメールの返りが来た。
 「おはようございます。未だ書けてないです。もう少しお待ちいただけますでし はい(原文ママ)、次からもっと早くあがられるように、どうにか」
 で、午後、電話して様子を聞いたら「17時までには何とか」みたいなことだったんだけど、19時時点で電話にも出ないし、メールの返りもなくなってしまった。完全にバックレ状態。しょうがないから平野さんに相談の電話をして、今回は僕がつづきを書いて、第3週から「イメージの詩」(以前、メルレポに連載してたもの)を再開することに決める。それはそれでいいけど、電話に出ないのはひどいなぁ。ちょっと年の瀬にガックシですよ。せっかく今年は楽しかったんだけどなぁ。

 で、カミさんと(やっと)スーパーへ行ったりして20時20分、しまぶくから電話が来た。
 「すいません、電話つながりました…。原稿も今、送りました…」
 「あぁ、おつかれ様でした…。ま、よいお年を!」
 次回以降、どうなるかちょっとわかんないけど、とにかく以下にしまぶくの原稿をアップしますね。大丈夫かなぁ(121231 榎)
 
 
 
 はい。もちろん緊張はしているんですが、しかし、前回を読み直してみるとうーん、確かに自分にしか興味が無いような文章ですね・・・。僕もおっぱいはかなり(いまだに)触りたい方なので、いろいろアプローチを考えて、試みてはいるんですが、言われたように「自分からの距離」だけで他人との違いを計ってるような部分はあると思います。と言うより、はっきりとそれだけしか無い気がします。いや、分かってはいるし(つもりかもしれませんが)、気をつけているつもりでもあるんです。「自分と人は違う」という事は。

 でも、なんでしょう、そうなんだろうなってくらいで、相手の側に立って考えるって事はあまり出来てないですね、ちゃんと考えてみると。そう言われてみると数々の場面が思い出されるような・・・。自分本位過ぎて失敗した場面。けれど、それでも尚よく分からないんです。「他人は自分とは違う」の先をどうすれば良いのかが、イマイチ。

 たとえば小説の話だとすごく、主人公なりの登場人物、もしくは状況なんかに自己投影して読んでいますね。あらためて考えてみると。映画や芝居でもそうなんですけど、「自分」が出発点で、自分のところに物語を引き寄せた上で理解しようとしている。なので、入ってこない事はよくあります。入ってこないのか入っていけないのかは微妙なところではあるんですが。僕もたぶん「息が続かないタイプの読書家」なので、何度も立ち止まって本を閉じるんですが、本を閉じている間にやってる作業って恐らく、自分と照らし合わせてるって事なんですね。「自分」ならこの場面をどうとらえるのか、どう考えて動くのか。

 ただ、みんなそう読んでるもんなんだと思ってました。違うんでしょうか?そう言えば最近、映画の見方って話だったと思うんですが、女性はわりと客観的に「作品」として見るんだけど、男は思いっきり物語の中に入り込んで見るんだ、って話を聞いたような気がします。少なくとも僕は思いっきり当てはまります。

 えっと、ナルシズムの話でいうと僕はかなりそれが強いんだろうなという自覚はありまして。酔いがさめた時の凹み方、集中力の切れ方もよく分かる気がします。なので、吉野さんと山下さんを一緒にしてしまっているというのは、もしかするとそうなのかもしれないんですが、プレーヤーとしての2人の違いは分かるんです。ただ、うーん、また「あの人たちと自分」になってしまうんですが、その「集中力の切れなさ」という意味では共通項があるのかなと思いまして。

 肺活量、難しいですね。分かるような、分からないような。感じのキープかあ、なるほど。読む時の筋力の話は実感として分かる気がするんですが・・・。僕はねじめ正一さんの「高円寺純情商店街」という小説が好きで、それで高円寺に引っ越したような部分もあるんですが、そのあとがきでねじめさん自身がやっぱり書く時の筋力の話をしていまして。それまで書いていた詩や散文と比べると、小説を書く時に使う筋肉はまた違う。詩を書き続けた事でバランスが偏って利き腕の筋肉だけが肥大したのを、小説を書く事で体全体の全身運動をしたかったのだけど、それが大変だったと。それこそ800字と2万字の違いかもしれません。

 で、あの小説はまさに「感じのキープ」で描かれたものじゃないかと今回のえのきどさんの原稿を読んで気付きました。子供の目線で垣間見た大人の世界を、はっきりとした意味としてはとらえられていないし理解しきれていないんだけど、感情にもなりきっていない感情を、生活の匂いみたいなものの描写で表現して書いている。あの小説の中での「具体」って、主に切り取られた風景としてしか出てこないんですけど、それを繰り返すことで少年の思春期っぽい移ろいやすい心情とか、抱えてる葛藤とかがブワっと浮き上がってくる。

 「肺活量と感じのキープ」。そういうことでしょうか?

 それともうひとつ、書き手としての息が続く続かないって、「受け手(読者)」に文章の理解をゆだねるかどうか、という部分にも通じる事なんでしょうか?そこに自覚的、もしかすると意図的であるべきなのかどうか。(121231 島)
 
 
 
似顔イラスト/日高トモキチ
 
 
 
-ヒビレポ 2013年1月13日号-

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