イメージの詩 第23回

わかる人だけわかればいいや?

 
 
えのきどいちろう
(第10号で「活字とラジオ(とテレビ)はこんなに違う」を執筆)
 
 
 
 島袋寛之君とのカップリング連載が早々と暗礁に乗り上げ、半年ぶりに「イメージの詩」を再開することになった。クレジットを見ると前回は12年8月9日執筆分だ。その後、『愛の山田うどん』の執筆作業やTBSラジオ『水曜ウォンテッド!』の企画ミーティング等が入り、「メルレポ」(去年は「ヒビレポ」ではなく、メールマガジン形式の媒体だった)を担当する余裕がなかった。「イメージの詩」は吉田拓郎からタイトルを頂戴した企画だけど、別に日本フォーク史を総括するような内容ではなく、個人的なメディア史だ。どういう経路をたどって、どんなことを感じ考えて、ライターとして暮らしてきたのか、その覚え書きをつづる試みだ。

 去年、いちばん調子にのっていた時期は「代打屋」として、他の人が原稿オチした曜日まで連載回に組み入れた。意外と皆さん、落とすんだよね(笑)。僕は当連載がさしかかっている80年代中頃、20代のチンピラ時代も今もチャンスがあったらいっぱい書きたいほうだ。去年は杉江松恋さんや、やまだないとさんが落としそうになって「えのきどさんに書かれてしまう〜」とか、ツィートしていて笑ったなぁ。そうなんですよ、実は今まで黙っていたが、僕は原稿書くのが大好きなんです。

 85、86年くらいの時代へ戻ります。当時、僕は稼ぎの少ない駆け出しライター、世田谷のトイレ共同、風呂なしアパート(家賃1万5千円)でのんきに生活しています。大学時代の仲間と編プロ「シュワッチ」を設立したが、仕事の要領が悪くてメーワクばかりかけている。唯一、持ってる連載は自由国民社の『シンプジャーナル』。これはけっこう評判呼んだんだけど、お金にはならない。時代はバブル景気へ向かっているはずだけど、僕はぜんぜん無関係だった。もうすぐナンシー関に出会ったり、連載数を増やしにかかります。「シュワッチ」から独立して、テレビやラジオの仕事を経験します。過労で救急車を呼んだりします。まぁ、そんなことになるとはこの時点で微塵も思ってないんだけど。

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 編集プロダクション「シュワッチ」は高田馬場・栄通りのおにぎり屋の2階にあった。僕は最初、電車で、途中からは原付で世田谷区の千歳船橋から通う。といって面倒なので来たら寝袋で何日か過ごし、帰ったら家で仕事して何日も来ないみたいなパターンが多かった。会社業務(カンタンに言うとお金まわりの心配)は同級生の杉森昌武、板橋雅弘に任せっきりだ。ま、ホントにそういう才覚ないんだよね。興味があるのは原稿書くことだけ。

 その原稿だけど、当時、僕はよく「マイナーっぽい」と言われた。売れる、というか商品になる原稿が書けない。杉森は杉森で白夜書房をはじめとするエロ本系出版社の仕事をきっちり量こなす。板橋は集英社やなんかの男性誌でめきめき頭角をあらわしていた。ふたりとも営業力、つまり仕事の新規開拓力がある。僕はふたりから仕事をまわしてもらいながら、唯一の連載(『シンプジャーナル』)に全力投球していた。というより、全力投球するより他になかった。

 「マイナーっぽい」の内実について考えてみよう。当時、編集者に言われたのは「ネタが小さいところに入り込んでいる」「わかりにくい」みたいなことだ。「例えば板橋みたいに大きな的をドーンと狙え!」などと言われた。その頃は反発もしたけれど、今、思うと正しい指摘だったように思う。板橋は頭がよくて、その上、時代感覚というのか独特の皮膚感覚を持っていた。「今、何が発熱しているか」「何にスポットが当たっていて、それは何故で、次はどうなるか」を常に想定していた。優秀なフリーライターには、まず、そういうのがないといけない。

 で、僕はどうだったかというとネタの出発点がいつも自分だった。これはライターとして、その後もずっと僕の特徴になることだが、身辺雑記的な「目のつけどころ」勝負なのだ。で、僕は「みんな」ではないからそのネタはあまり一般のところまで広がらない。「僕に似た人」は喜ぶかもわかんないけど、狙っているのは小さな的だ。このニュアンスを書く側から言うと「わかる人だけわかればいいや」みたいなことになる。まぁ、そりゃ「マイナーっぽい」姿勢ですわなぁ。

 これは僕の課題になった。もう、最初は僕を「みんな」にすればいいんじゃないかと思って、売れてる本を必死に読んでみたりするのだが、当たり前だが自分は「みんな」にはならないのだ。最大公約数的な一般と同じ嗜好、同じ感性に自分を変えてしまうなんて無理なんだね。だけど、「自分」なんてなくしてしまえばいいんじゃないかなぁと思ったりしていた。削って削って、「自分」の痕跡なんかなくなって、例えば写真論でいう「図鑑」のように事実だけポンとある状態になっても、尚、書いたものにしぶとく残るのが「自分」じゃないかなぁなどと考えたり。このアプローチは、もしも僕が週刊誌の特集班なんかで先輩やデスクにしごかれる運命だったら身についたかもねぇ。

 この課題については色んな風に形を変えて、何度もアプローチを試みる。まぁ、今のところは「わかる人にだけわかればいいや」が突破すべき壁だという、そこのところですね。どうしたもんですかいのう、と20代中頃はいつも悩んでいた。

 一方、「シュワッチ」は杉森、板橋の頑張りで仕事が増えてきて、人手が足りなくなってきたのだ。「誰かいないか?」という話になって、パッと頭に浮かんだのが、お袋が恵比寿でやってた喫茶店の常連グループのひとりだ。喫茶ぶりっくには、当時、新聞配達バイトの大学生、W君がきっかけになった山形出身の学生グループがたむろしていた。W君自身はその後、何年かして泥酔してホームから落ち、不慮の死を遂げてしまうんだけど、何人もの友達を店に連れてきた。で、僕が目をつけたのが法政大学行ってた押切伸一だ。僕は押切君に電話したときのことをよく覚えている。

「もしもし、押切君ですか。CBSソニーの新聞の仕事があるんだけど、君も編集長になってみないか?」

 レコード会社のパブリシティ媒体の仕事が来ていた。「中大パンチ」のノリで新聞を作るのだ。が、これは細かな業界的すりあわせが必要な仕事で、「えのきどには向いてない」と即断された。それをいきなり新人(っていうか大学生)に任せようというのだから無茶もいいとこだけど、えのきどはそれくらい不器用と見なされていた。押切君は「ヒマだからいいすよ」と高田馬場にやって来る。で、任せてみたらこれが即戦力だった。いきなりサマになっている。物怖じしない。

 押切君は同郷の大場勝一をそのうち「シュワッチ」へ引っぱって来る。2人増えたことで、事務所は機動力を増していく。押切君は講談社に切り込んで、『ホットドッグプレス』の仕事をするようになる。その頃、同誌にはまだ山田五郎、いとうせいこうが社員編集者として働いていた。

 「えのきどさん、伊藤正幸って人がすごい才能ですよ!」

 僕はそれを聞いて「ふーん」って感じだ。まいったなぁ。押切君のほうがバリバリやってる。てか、この男、面白い人にぶつかる力がハンパない。くっそー、俺も『シンプジャーナル』は面白く書けるんだけどなぁ。連載は一人称の「僕」とか「俺」が出せるから。俺は無署名記事にも「僕は」とか書きたくなる。ん? てことはアレか、連載を増やせばいいのか? 連載じゃんじゃんやればいいのか?
 
 
 
似顔イラスト/日高トモキチ
 
 
 
-ヒビレポ 2013年1月27日号-

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