ちょっとプアンなタイ散歩 第7回


長靴 〜NAGAGUTSU〜

 
吉野 歩(第5号で「カラスを飼うという愛の行方」執筆)
 
 
 

2011年10月下旬。私は日本でインターネットのニュースを見ながら、やきもきしていた。タイが大洪水だという。津波じゃない。何カ月も続いた大雨のせいだ。パソコンの画面には、時系列の浸水経過と予測が地図で示されていた。水は、北から南へと降りてきている。数日後の予想では、浸水を示す青色のマークでバンコクが染まっていた。そこには、友人が働いているオフィスも、家も、くだらないおしゃべりをした公園も、おばあが大切にしている小さな店も、みんな含まれていた。

胸が苦しくなる。自分の吸える空気が、周囲からだんだんなくなっていくみたいだった。

 
 

ラジオもネットも、いちいち詳しいことまでには触れていない。だって、他所(よそ)の国のことだもんね。ならば新聞!とコンビニに走る――が、各社の見出しは全て「ホンダ(だったかトヨタ)のタイ工場、業務停止」とか「日系企業○円の損出」とかで、タイの人がどうかなんて一切ふれていない。確かに大事ですよ、わが国の稼ぎ頭の大ピンチ。だが、タイ人の心配も少しはしろっつーの、こんにゃろーめ! ウチにはテレビがないのでそっちの方は見ていないけど、あらかた似たようなものなんだろう。

フェイスブックでは、バンコクの友人たちがすごい勢いで「つぶやいて」いた。みんな不安なんだろう。そのつぶやきに殺到するタイ語コメントの数々。が、当然のことながら内容がまったく理解できん。親友のヌイに直接チャットで声をかける。
「ニュースで見たよ。そっちは大丈夫なの?」
こういうときの“大丈夫?”って、自己満足にしかならずイヤラシイと思ったのだけど、確かめずにはいられなかったのだ。
「ありがと、まー、平気平気」
少しほっとする。しかし日を追うごとに、ヌイの返事は変わっていった。

「会社には行けなくなっちゃったから、仕事を持ち帰ってきてやってるんだよ」

「村のすぐ手前にまで水が来てるよ。膝より上はあるんじゃないかな」

「自分の家はもうダメそうだから、お姉ちゃんの家に避難してきてる」

――ダメじゃん。もう全然平気じゃないじゃん。

ヌイは、バンコクの少し北にあるドンムアン空港の近くに住んでいた。だから、洪水の被害をより大きく受けていたのだった。足りないものは?と聞くと、「長靴」と即答。どうやらあっちでは品切れらしい。お安い御用だ! 少しでも早く届けてあげたい。

翌朝、急いで長靴を買いに行く。なぜだか忘れたが、私が使えるのはこの日の午前中だけだったのだ。たいして稼ぎもしてなかったが、ビンボーはビンボーなりに色々と忙しかったのだろう。

やってきたのは近所の「チャレンジャー」という店だった。首都高の下にあって薄暗く、うらぶれた雰囲気が漂っている。店内には、不織布で作ったかのような200円のYシャツや、盗品みたいなアダルトDVDなどが置いてあり、まっとうな暮らしをしている市民だったらまず避けるだろう。が、奥に並べられている雨合羽や作業着だけは、しっかりしたものであることを私は知っていた。

開店前。ごちゃごちゃとした店を覗きこみ、恐る恐る「すみませーん、長靴はありますか?」と声を上げてみる。すると、棚の影からにょっきり現れた無精ひげのオヤジ。「うわー、なんか怒られそ……」とビクついたのも束の間、オヤジは準備の手を止めて、様々な長靴のダンボールを空けてくれたのだった。
「これはどう?」
「確かにかわいいですけど、ちょっと短いですね。もっと長いのないですか?」
「だって、お客さんが履くんならこれぐらいが丁度いいよ」
「実は、あのー、友人がタイにいて洪水だっていうもんで、そっちに送ってあげたいんです」
「あぁ、そうなの?? んじゃこれなんかどう?」
オヤジが出してきたのは、真っ黒で無骨なまでにデカい長靴。男モノか?
「25、6センチぐらいあるけど、小さいよりいいでしょ」
触ってみると、かなり厚めのゴムでできていた。これなら危ないものを踏みつけても、ヌイが怪我することはなさそうだ。決めた、ダサいけど合格! これからすぐに発送することを伝えると、オヤジはなんだかよく分からない古紙で、長靴をぐるぐる巻きに包んでくれた。たかが1500円のために親身になってくれたオヤジよ、ありがとう。そして影で「バッタもん屋」とか呼んでてゴメン。

いかん、意外に時間を食ってしまった。次に向かったのは郵便局。ここは伝票書いて送るだけだから楽勝でしょ。昨夜、知人に教えてもらった情報によると「EMS」というサービスが一番短期間で届くそうだ。タイへの到着日数は「3日」とある。これなら間に合うな。だが、窓口で「バンコクへ」と告げると、職員の顔が一気に曇った。レジ前に貼ってある紙をペラペラと確認している。役所からの“お達し”が来ているのかもしれない。言いづらそうに口を開く。
「う〜ん、一応お預かりしますけど、半月か1カ月かかっちゃうかもしれないですね」
ガーン!! そんなんじゃ間に合わないよ。どうしてもヌイが必要としているうちに届けたいんだ。事情を説明して、金額はいくらになってもいいから何か方法はないのかとお願いした。
「最新の情報がないか、本部に電話して確認してみましょうか? あまり期待できないと思いますけど……」
わらにもすがる思いで聞いてもらったけど、やっぱりダメだった。携帯でサガワやヤマトも調べてみたけど、どっちも芳しくない。どうやら選択肢はなさそうだった。私は腹をくくり、EMSでお願いすることにした。
「なんとか、少しでも早くお願いします」
頭を下げた。郵便局の職員さんにしてみれば「俺たちに言われてもねぇ」という心境だったろうが、そうせずにはいられなかったのだ。

少しでも早く――、もう祈るしかない。
たかだか物を買って送るというだけの作業で、こんなに気を揉んだのは初めてだった。

ところがどっこい、1週間も経たないうちにヌイから「長靴が届いた」というメールがきたのだ。びっくりマークがいっぱいの文面からは、彼女がとても喜んでくれているのが伝わってくる。よかったぁ。これぐらいのことしかできないけど、頑張れよ、ヌイ! 日本もさぁ、大変なことになっちゃったけど、私もこっちで頑張るから!!

その直後、私の声に応えるかのように、彼女の写真がフェイスブックにアップされてきた。

これだ。
 
 

 
 

――?! 履いてない。

 
 

 
 

だ・か・ら、履いてくれ〜っ!!
せっかくの贈り物を汚さないようにという配慮なのだろうか?
うれしい。うれしいが間違ってるぞ、ヌイ。少なくとも今はその時じゃない。

だが、次の1枚を見て、私の疑問は解決した。

 
 

 
 

さては、あんた楽しんでないかい?

腰から下の力が抜けていくのを感じた。そして缶ビールが飲みたくなった。
もう、書くべきことは何もない。
とりあえず、元気そうでよかった……。あんたなら何があっても大丈夫。

 
 

-ヒビレポ 2013年2月18日号-

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