ちょっとプアンなタイ散歩 第9回


あの2週間(2)

 
吉野 歩(第5号で「カラスを飼うという愛の行方」執筆)
 
 
 

(前回までのあらすじ)
22歳、自らが引き起こした不倫騒動により何もかもが信じられなくなった私は、タイへ旅に出ることを決意する。他人との接触を断ち、ストイックに己を見つめ直す「人生初の一人旅」をスタートさせた、はずが……。

■ もう帰りたいです ■

ぬおおおお~んっ!

バンコクで迎えたはじめての朝。私はホテルの広すぎるベッドにうずくまり、獣のような声をあげて号泣していた。なんていうか、猛烈に寂しい。

廊下から聞こえてくる会話は、解析不能なタイ語か英語。窓の外の風景だって、都会とはいえ完膚なきまでに“東南アジア”である。自分に馴染みのあるものといえば、この身体とわずかな所持品だけ。まいった。この状況はどうしようもなく「アウェイ」である。この国に私を知っている人間は、誰一人として存在しない。仮に私が、急に心臓発作を起こして死んだとしても、2週間後のチェックアウトまでは誰も気づいてくれないのだ。あ、でもハエとかゴキブリなら気づいてくれるかもね。嗚呼、卵だけは産まないで。

 
 

そうぼんやり考えていたら、突如、爆発的に涙があふれてきたのだった。隣の部屋に聞こえたらみっともないと思いつつも、嗚咽が止まらない。怖いよーう。寂しいよーう。もうお金とかいいから帰りたいよーーう。

旅1日目にしてこの体たらく。何が「一人になって自分を見つめる」だ? お前なんて実家の便所で十分だ。鍵でもしめて自分の出したウンコでも眺めていたまえ。しかし今となっては、その便所すら遠い海の向こう。こんなんであと2週間どう過ごせというのだ。「予定がない」という事実が、果てしなく広い砂漠のように私を呑みこもうとする。ほら、蜃気楼さえ漂ってきた。

ゆらゆら、ゆらゆら……。

枕元にある電話機が、妙に魅惑的に見える。そうか、国際電話なら日本に――って、ダメだ! その受話器を手にとっては!! そしたらあんた、「あの彼」に電話するだろう? そうじゃなきゃ「その前の彼」か、もしくは「その前の前の(以下略)」。そんなことしたら、何のためにサヨナラしたのか分からないじゃないか。

そう、この禁断症状を乗り越えてこその「克服」なのだ。

■ 未知との遭遇、そして接近 ■

部屋の中は危険と判断し、ふらふらと外にでる。うん、とりあえず歩こう……。

観光は去年済ませてしまったし、そんな気分にもなれなかった。スクンビットの大道路をただひたすらに進む。この道路はどこまでもバカみたいにまっすぐ伸びているため、何時間歩いても行き止まりになることもなければ、迷うこともない。車の大渋滞と排気ガスで鼻の穴は黒くなるし、バイクタクシーや物売りにも絡まれるけど、あてもなくゾンビのように歩くには、もってこいのルートなのだ。

1時間ぐらいぼんやり歩いていると、懐かしい建物が目に入った。

 
 

「バンコク科学博物館・プラネタリウム」。前の年、友人A子と冷やかし半分で来たのだった。『地球の歩き方』に載っているくせに、お世辞にも観光スポットとは言えず、近所の暇そうなジイちゃんと子連れと野良犬とハトがぼんやりとしているだけだったが、それはそれで面白かった。プラネタリウムなんて、役所のおっさんがマイクとペンライト片手に、手動で星空回してるみたいな雰囲気だったしなぁ。

誘われるようにゲートに入る。薄暗い水族館を覗くと、入り口にはひとりの女の子が座っていた。

 
 

「コンニチハァ~。ニーホンジン デスカ~?」

とっさに身構える。旅のガイドブックにより「日本語で話しかけてくるヤツは、物売りか詐欺である」という情報がインプットされていたからだ。女とて油断は禁物。
「こ、こんにちは」
「……」
無言。だが彼女は珍しい昆虫を発見した子供のように、目を輝かせてじっと私を観察している。どうやら、知っている日本語はあれで打ち止めのようだった。饒舌じゃない=安全。極めて単純な方程式により、脳内の危険信号は赤から黄色に緩和された。よし、今度はこっちの出番だ。
「アー ユー スタッフ?」
「イエース」
「アイ ビジテッド ヒア ラスト イヤー」
「オー グーッド!」
うわ~、私、人間とまともに会話してる!! 十数時間ぶりのその感触は私を序々にハイにさせた。ついでに思い出したが、ここには以前、イカのすごく変なイラストが置いてあったんだ(上下が逆さになっていて、通常「足」とされる10本の触手が、頭から生える謎の10本式ドレッドヘアーと化していた。ちなみにパンツは三角)。その所在を尋ねようとしたが、イカを英語で「ゲッソー」と言っても彼女はきょとんとしている。あれは任天堂『スーパーマリオ』シリーズの単なる敵キャラ名であって、正しくは「スクイード」だという知識を、私は持ち合わせていなかったのだ。仕方なく、イカの形態模写に踏み切る。両手で頭上に三角形を作り、コマネチのように激しく動かす。さすがに足は増やせないので、小走りで左右に動き回ることでその数の多さを表現した。

「ぶははははっ。」

女の子はニヤニヤして見ていたが、ついには「たまらん」といった調子で吹き出した。どこがそんなに面白かったのかは不明だが、とにかく、それがきっかけで我々の距離は一気に縮まった。メモやジェスチャーを駆使して仕入れた情報によると、彼女の名前は「ヌイ」。歳は、私より1つ上の(当時)23歳。水族館の係員というよりは、この一帯のスタッフとして働いているらしい。イカのことは、どうなったか忘れた。

「アユミはどこのホテルに泊まってるの? 今日仕事が終わったら行きたい!」

ヌイの目から、好奇心ビームが放たれる。ついホテルの名前を教える私。貴重品だらけの部屋に、初対面の、しかも外国人を入れるのには抵抗はあった。だけど、「うれしい」という気持ちのほうが上回った。久々の人間、人間! 踊りだしたい気分だった。お前は無人島の世捨て人か。

■ 違う現実を生きながら、同じ菓子を食う二人 ■

はっきり言って、浮かれていた。約束の数時間前には、近所のスーパーマーケットでお菓子やらフレーバーティーやらを仕入れて「おもてなし」の準備におおわらわ。思えば、生まれも育ちも団地だった私は、正式な自分の部屋というものを持たされたことがなかったのだ。だからここが「人生初のマイルーム」というわけ。そりゃ、浮き足立つってものよ。

やがて、ヌイはやってきた。部屋中をあれこれ見学した後、私がセッティングした椅子じゃなくて絨毯に直に座り、ベッドをテーブル代わりにして勝手にくつろぎ始めた。あれ、こっちで素敵なティータイムじゃねえの? まあいいか。我々は、床にあぐらをかいたりだらしない格好をしながらたくさんの話をした。お互い英語が不得意なため、会話は辞書を用いてのリレー形式。ヌイが伝えたい言葉は、彼女が持参した「泰英辞典」によりいったん英語に翻訳される。その英語を、今度は私が自分の「電子辞書(英和モード)」で日本語に訳し、はじめて理解する。私から話したいことはその逆。気の遠くなるような作業だったが、それだけお互いのことが知りたかったのだろう。

「アユミはタイに何しに来たの?」
「観光――じゃないんだけど、まぁいろいろあってね。ロストラブしてちょっと一人になりたかっただけ」
「振られたんだ。でも大丈夫だよ、元気出して!」
「ちがうって。私は“振った方”だってば!! 言っとくけど、私、今まで付き合った人に振られたことないんだからね」

いやいや、そこで胸張ってもしかたないだろ。そんなんじゃない。もっとフクザツな関係とフクザツな心境なんだけどさぁ。でも単純な言葉に変換しちゃうと、その程度のことにも思えてくる。

「私も、いつか日本に行ってみたいなぁ」
「飛行機代は意外と安かったよ。ヌイもお金貯めてこっちに来なよ」
「うーん、お金はもしかしたら何とかなるかもしれないけど、やっぱ無理かも……ビザが下りないし。」
「え~、何でよ?」
「タイの女の子って、日本じゃ○○○だと思われてるから」

○○○を辞書に打ち込むと、表示された日本語は――「売春婦」。言葉を失った。もちろん風俗関係の店にアジア系の女性が多いのは知っていた。でもそれは、自分の属する世界には関係のないことだと、勝手に「考えなくていいことBOX」に振り分けていたのだった。テレビや社会の授業で聞きかじったことが、一気に現実の世界に姿を現したような感じ。自分の考えの浅さにうなだれる。さっきの飛行機代だって、日本人の金銭感覚と一緒なはずないじゃん。なんだか申し訳ない気持ちでいっぱいになった。その申し訳なさを、どこに向けたらいいのか分からない。

「私は、ヌイのこと、そんなふうには思わないよ」

もっと気が利いたことを言えればよかったのだが、これが精一杯だった。ヌイは、私とはまた違う現実を生きているのだ。ヌイは私よりおしゃれな服を着て、床に座り、スナック菓子をバリバリほおばりながら、「これからもっと働いてお金を貯めて、大学で勉強をしたいんだ」と笑う。彼女は「タイ人の女の子」というつかみどころのない存在じゃなくて、汗もかけばお菓子もこぼす「ヌイ」という一人の人間なのだ。うまく言えんが、抱きしめたいぞヌイ。ハグしてえ。そんな習慣ないからできないけど、そういう気持ちが沸き起こったってことなんだ。うまく伝えられないから、とりあえず目の前の菓子を食べるのだ。食べたくないけど食べるのだ。

ヌイが帰った後、私はまだ夕方だというのにバッタリとベッドに倒れこんでそのまま眠ってしまった。気を失う寸前に時計を見てびっくりしたけど、辞書のリレーで3時間以上も話していたのだ。そりゃ疲れるわ。

――今までこの連載を読んでいらっしゃる方はすでにお分かりかと思うが、彼女こそが、第3回で私に正体不明のデザートを勧め、第8回で私が長靴を送った「ヌイ」その人だ。この出会いがきっかけで我々の友人関係は10年以上続くこととなった。

 
 

(続く)

 
 
-ヒビレポ 2013年3月4日号-

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