ちょっとプアンなタイ散歩 第11回


あの2週間(4)

吉野 歩
(第11号で「チューハイ350円で悩む、ウェブ・ライターの告白」執筆)
 
 
 

(前回までのあらすじ)

道ならぬ恋の清算から、自分を見つめ直すために始まったバンコク一人旅。孤独を感じたのも束の間、序盤から「ヌイ」というタイ人の女の子や「エリ」というフィリピン人男性と知り合い、エリとは流されるままに一夜をともにしてしまう。そして私は、まんまと恋に落ちてしまったのであった。

 

■ ショッピングセンターの決意 ■

運命のギアチェンジ! 加速する日常! と、実況したいほどの忙しい毎日が始まった。日没まではヌイやその仲間たちと遊び、夜が更けたころにはエリやその同僚のダンとバンコク中を飲み歩いた。そのうち2回に1回は、ベッドの上での交流試合(第10回参照)である。運が悪いとダブルブッキングなんてこともあり、「静かに己を見つめ直す時間」は夢のまた夢。これでいいのか、悪いのか――。

ヌイたちには色々なところへ連れて行ってもらったはずなのだが、なぜか一番鮮明に覚えているのが「ロビンソン」という何の変哲もないショッピングセンターでの出来事。その日は、タイ最大規模のお祭り「ロイ・カトゥーン」(灯篭流し)だった。街中が花でデコレーションされた灯篭と、陽気な音楽で賑わっている。当然、ヌイとその同僚、そして私の5人もそこへ向かっていたのだが、お腹が空いたために、手ごろなイートインに寄り道をしたのである。

 
 
イートインに向かう途中で、面白そうなゲームを見つけた我々。日本にもよくある“1プレイ100円”みたいな子どもだましではあるが、5人でキャーキャーわめきながら交代で遊んでいた。そして私の番になったとき、その中の一人「チィ」が「アユミのバッグ、持っててあげるよ」と手を差し伸べてきたのである。

一瞬、躊躇した。なぜなら、この小さなハンドバッグの中には、パスポートやら全財産やら、失ったら致命的と思われる旅の貴重品のすべてが入っていたからだ。実はバンコク初日の朝、ビュッフェでこのバッグを置き去りにした私に、見知らぬオヤジがニヤニヤと手招きをしてきて、ヘンな調子の日本語でこう言ったのだった。
「あなた日本人でしょ? そのバッグの中のパスポート、この辺じゃ10万円で売れるよ。気をつけたほうがいいよ」
ちなみにオヤジは、スターウォーズのヨーダに似ていた。親切心から教えてくれたであろう彼には大変恐縮なのだが、この国籍不明のヨーダがどうしてバッグの中身まで知っているのかと思うと、不審で不気味で仕方がなかったのだ。

それ以来私は、道を歩くときも車道とは反対側の肩にバッグを掛け、常に脇をしめて固定していたのである。荷物を持ってくれるという申し出もずっと断り続けてきた。だって、受け取った瞬間に走って逃げられたら一巻の終わりであろう。
――だが振り返ると、チィはまだ手を差し出している。この子は照れ屋で、彼女から話しかけてくれることはほとんどなかった。なのに今、勇気を出して「バッグを持つ」と言ってくれているんじゃないか。っていうか、もうゲーム始まっちゃうし。

短い時間でずいぶん迷ったが、私は初めてバッグを他人の手に渡すことにした。もちろん何事もなかった。だがこのバッグを渡した瞬間から、ヌイを含めた彼女たちは自分の中でやっと「本当の友だち」となったのだ。彼女たちの詳しいバックグラウンドを私は知らない。が、今、目の前で動き、笑い、しゃべっている彼女ら自身を信じようと思ったのだ。それで万が一、パスポートを持ち逃げされても仕方あるまい。そこを含めての決心である。これって臆病者なんですかね? 警戒しすぎなんですかね? でも、まぁいいか。このとき、チキン野郎はチキン野郎なりに、「壁を突破した」とか「何かを得た」という確かな感触を得ていたのだから。

ロイ・カトゥーン祭りは、満月の夜に行われる。そのせいか、とても満ち足りた気分であった。

 
 

 
 

■ 場違いな猛勉強 ■

だが、まだ満ち足りない部分がある! エリ、エリ〜、愛しのエリー。何をしていても彼のことが頭から離れない。夜は会いたい、会えない日には声ぐらい聞きたい! で、意を決して携帯に電話をかけるわけだが、それが相当な「強敵」だったわけで……。なんせ会話が続かない。相手の言っていることが分からないから何度も聞き返す、お互い困る、疲れ果てる、電話切る。7000以上の島が存在し、約170もの言語が流通しているフィリピンでは、英語が“半”公用語らしい(メインは「タガログ語」)。よって彼のスキルに問題はない。ひとえに、こちらの英会話力のなさが原因だ。対面なら見つめ合ってアハンアハンしていれば通じ合える部分もあるだろうが、電話は音声オンリー。鼻息だけじゃ何も伝わらないのだ。

言いたいことも聞きたいことも、山ほどあるのにぃ〜!!

というわけで旅の中盤以降、自由時間のほとんどは「英語の猛特訓」に費やされることとなる。エンポリアム百貨店に入っていた東京堂書店で、定価が2倍にも3倍にも膨れ上がった“日本から輸入した英会話本”を購入し、ホテルにこもる。

 
 

 
 

「今は残業中?」とか「蚊に刺されてかゆい」とか「アユタヤーはどのへんが面白かった?」とか、次回の電話で伝えたいことを調べてはノートに書いていく。そして、繰り返し発音、暗記、会話シミュレーション。寝る時間も削った。受験勉強より必死だったかもしれない。ついでに「バツイチ」「生理」「妊娠」などの言葉にもマーカーをつけておく。あたしゃタイまで来て何やってんだか……。

■ 君の行きたいところ ■

恋、勉強、恋、恋、遊び、また勉強。青春ど真ん中、女子高生みたいな毎日である。だが、旅も終わりに近づいたある夜、私は見てしまったのだった。エリのパスケースに大事そうに挟んであった“女性の写真”を! 彼がホテルの受付でパスケースを落とした際、中身が丸見えになったのだ。フィリピン人にしては色白だが、艶々の黒髪&はにかんだ笑顔。背景は庭が見える洋館。間違いなく「ええとこのお嬢様」やんけ。タダ同然で買った“血糊べったりTシャツ”を着ている私とは、180度違いますな。

もはや、旅エッセイやノンフィクションというより「投稿☆私の恋愛体験談」みたいなシチュエーションである。赤面のあまりキーボードを叩き割りそうになるが、歯を食いしばってこの先を続けることとしよう。

で、「投稿☆私の〜」としては、当然こう質問することになる。
「え……、誰、それ!?」
「ああ、これは妹だよ。心配ないって。」
――うっそーん、顔がぜんぜん似てないよ。第一、肌の色が違うじゃん。笑ってごまかせると思ったら大間違いである。ぐるぐる沸き起こる疑惑をこめて、目から“うらめしビーム”を発射してみる。すると案の定、
「ごめん、実は恋人なんだ。でも、もう振られちゃったんだよ」
やはりそうでしたか。でもやっぱズシンとくるなぁこういうの。もはや現在進行形か否かなんて、どうでもいい。だってまだ、あなたの心にはその女性がでーんと居座っているわけでしょ? なんか騙されたような気持ちである。あまり言いたかないけど、日本で不倫をしていた頃は毎日が「嘘まみれの情報戦」だった。現状を守るため、自分の立場を優位にするために、周りの大人も私も嘘をつく。だから非常にナーバスだったのだ、「隠す」とか「ごまかす」とか、そういうことに対して。

誰かを信じる、信じないって、100%信じる方の勝手だ。だが、あのころは信じられる基盤がないと、水に浮いた空き缶の上をそろそろと踏んで渡っていくみたいで怖かったのだ。もう沈みたくない。大丈夫な缶だけを見分けたい。

だが思えば、ごまかしているのはこちらも一緒だ。日本に帰ってもエリと付き合い続けるかといえば、たぶんノーだし。正直まだ前のことが吹っ切れているわけでもない。こっちこそ水に沈む、穴の開いた缶だったのだ。

ドウゥゥゥーン!!

頭の中で何かが噴火した。火柱が立ち、溶岩噴出! もう止められない。ここ1週間の猛勉強が効いてか、泣きながら英語でまくし立てる。この旅の経緯、日本でしてきたこと、世の中嘘ばっかりだという嘆き。日本語なら言葉を選んで話すのだが、ボキャブラリーがないせいで、ひどくストレートな表現になってしまう。伝えたい内容としては、「今後、他人のどういう部分を信じて付き合っていけばいいのかが、分からなくて不安です」なのだが、実際の台詞は「嘘つく人間は死んじまえ」みたいなことになってしまっている。半分以上は彼に関係のない話。正直“いちゃもん”レベルだ。これでは、恐ろしくヒステリーな女だと判断されても仕方あるまい。

だが、エリはずっと黙って聞いてくれていた。ちゃんと耳を傾けてくれているのが分かる。こちらの噴火が落ち着くと、彼は私の肩に手を置き、顔を覗き込むようにして静かに言ったのだった。

「いいかい? 君は人生のドライバーなんだよ。ハンドルをきれば、どこへでも好きなところに行けるんだ」

キザだと思うだろうか? 適当にはぐらかしていると思うだろうか? 私はそうは思わなかった。その言葉を聴いた瞬間、目の前にはサバンナの草原が大パノラマで広がり、そこでオープンカーを運転している自分が見えた。顔に風がぶんぶん当たる。道は見えない。道はないが障害物もない。今いるこの地点から、私が望めばどんな場所にでも行けるのだ。そしてハンドルをきる両腕は――、ちゃんとここにあるではないか。きっと目の前のこの人も、長いドライブの最中なのだ。トランクにつめた荷物の中には、先ほどのパスケースの女性も含まれているに違いない。エリと私、たまたま2台の車がすれ違ってお互い片手を挙げる。「やぁ、元気かい」「うまくやれよ」。ほんの一瞬の出来事。そんな出会いも素晴らしいじゃないか。

その数日後、エリは日本へと旅立った。「先にあっちで待ってるから」という軽口と、現地での連絡先を書いたメモを残して。そしていよいよ明日は、私が旅立つ番。これでタイともお別れだ。

(続く)

 
 
-ヒビレポ 2013年3月18日号-

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