スペインは情熱の国だと、誰かが言った。 第3回


(今週は予定を変更してお送りします) 編

 
島袋寛之(第8号で「図書館で探りを入れる」執筆)
 
 
 
 さて、この原稿を書いている現在、安藤美姫さんの話題(※)が世間を賑わせています。ヒビレポのサイトに載るころにはきっと飽きられて落ち着いている事でしょう。願わくばそうあって欲しいところです。もうすでに様々な場面で取り上げられ意見が述べられていて、様々な放言がなされているので、皆さんも何らかの形で目にする機会があったかと思いますが、ぼく自身こんなきっかけであらためて個と社会の関係について考えることになるとは、思いもよりませんでした。例の「報道ステーション」でのインタビューをぼくもリアルタイムで見ていたのですが、「へー、そうなんだね」以上の感想が無かったので、まさかここまでネガティブな反応が多く、結構な騒ぎになるとはその時点で考えもしなかったからです。

 元々今回はスペイン人の生活における家庭が占める比重やマザコン性、クリスマスなど事ある毎に家族が集まって祝う文化から見える個人、社会の捉え方を日本との違いと照らし合わせて書こうと思っていたのですが、ネットや雑誌、テレビを中心とした議論(の体すらなしていないとしても)を見ているかぎり、そもそも日本では「家庭」が成立しない状況になりつつあるようなので、比較する事自体が急にバカらしくなってしまいました。ただ、民族問題や移民問題を通してあの国を見てみると、今回の出来事と多少共通する部分を感じたりもするので、少し触れてみようかと思います。どこに着地するのかよく分かりませんが・・・。
 

 

 社会的に寛容、というのはどういう状態なんだろうと考えることがあります。無償の愛で隣人を許す? 全てを受け入れ笑顔で迎える? 理想はそうだとしても、ぼくはそのどちらにも難しさを感じるし、少なくとも自分がそれを実現するのは不可能じゃないだろうかと思います。それでも、出来る限り他者との間に立ちはだかる壁がなるべく低くあって欲しいと願ったりもする。だとすればその願いを叶えるために何が出来るのか。多分それは相手を理解出来るまで対話を続けるとか、自分の事を分かってもらうために伝え続けるとか、そういうことだけでもない気がします。感情を理性で乗り越える大切さを頭では分かっていても、どうしても出来ない場面がある。感情的なことが正解な時だってある。それならぼくには何が出来るのか。恐らく、『自分が相手にとっては他者である事を理解する』のが近道ではないでしょうか。

 自分が排除されるリスクを下げるために、相手を排除しない。自分と相手の立場がそれぞれ「たまたま」の上に成り立っていて、いつ入れ替わってもおかしくない、薄い根拠でしかないことを理解する。理解する、と言うと更に困難なようにも聞こえますが、簡単に言えば、例えば自分が恐いと感じることは相手も怖がってるんじゃないかと考えてみる。自分が幸せに感じることと相手が感じることは本当に違うところにあるのかと考えてみる。その程度のものです。それを考え続ける事で、感情的になった場面でも、そのピークを下げることが出来るのではないか。

 感情で行動したり、発言したりするのはどうしたってしょうがない。どんなことを考えても、どんな意見を持ったとしてもそれを他者に止めることは出来ないし、止めてはいけないはずです。でもそこで一旦飲み込める、自分の意見や考えが社会に対してどういう角度で立っているのか、その考え方が世間においてマジョリティになった時、巡り巡って自分にどう影響するのか。それを、踏みとどまって考えてみることを試せるのなら、「寛容な社会」に少しでも近づけるのではないか。 ぼくはそれが少なくとも対人関係、残念ながら特に現代では避けがたい「社会」の中に位置づけられる「個人」としての文明的な進歩をうながして(大げさ!)、同時に自分の存在を守る方法にもなるのではないかと考えています。

 上の文章は、新大久保を中心とした排外主義者によるヘイトスピーチデモや、国会さえも巻き込んで拡がりつつある、と言うよりもすでに手遅れの感さえある生活保護受給者叩きを、かなり意識的に書いています。それらは正直、社会問題が語られる時によく使われる「想像力」という言葉さえ必要なくて、もっとシンプルな、「果たしてあなたは、明日も今日の自分でいられますか?」ということを問われている、突きつけられている問題だと思います。リスクを分散するためにあるはずの社会、国という機能がいつの間にか、一番大事な要素であるはずの「再分配」、社会で個人を支えるということを忘れて、排除、搾取を主体とし始めている。それは今回の安藤さんの件に触れても、通底するものを感じました。安藤さんの身に起こったこと、選択をヤジ馬的に面白がったり、意見することはある程度しょうがないのかなとも思います(よく見受けられた人格攻撃に関しては到底受け入れられませんが)。ぼく自身芸能人や政治家の恋愛事情やスキャンダルを消費しているという自覚もあるし、ライターの仕事なんて、そういうところに手を突っ込んでこねくり回すことだったりもします。ただ、誕生した子供の存在の可否を問う、恐らくその自覚もないままに繰り広げられた言説には、とうとうこの国は、社会全体として子供を受け入れ、守ることさえ出来なくなってしまったのか。更に言えば、自分とは違う他者の存在を認めない、そんなところまで来てしまっているのかと、心底うんざりしました。普段あまり意識しない(ように意識している)、「日本国」という集団の存在を強烈に意識することにもなりました。

 かえりみて、近年ではフランコという独裁者に圧政を敷かれ、分断と無茶な統一に苦しめられ、歴史的に見ても常にその状態にさらされている、土地を奪い、奪われてきたスペイン人は、いまだ解決しがたい困難な問題を抱えつつも、その辺りをうまくやっているように見えました。確かに、ビルバオを中心としたバスク地方、バルセロナを中心としたカタルーニャ地方とマドリッドを中心とした他の地域は、言語的にも、文化的にも相容れない部分が今でも強くあり、対立とも言える構図が国をつらぬいています。特にバスクに関して言えば、ETA、「バスク祖国と自由」が独立をうたいテロを繰り返していて、スペインという国が抱える危うさを体現しています。マドリッド中心、と書きましたが、例えばアンダルシアにしても、「私たちはアンダルシア人」という意識が強かったり、もっと細分化出来る地域ごとの自意識は、もしかすると日本におけるそれよりも強いかもしれなく、決して「スペイン」というカテゴリーでくくれるものではありません。

 少し収まりの悪い言葉ですが、ここであえてカテゴリーと書いたのには意味があります。近頃、作家の平野啓一郎が「分人」という考え方を提唱しています。場面ごと、「自己」が置かれている状況によって違う「自己」が存在していて、主体である限り常に、多面的な「自己」としての存在を抱えている―、要約すればこうでしょうか。ぼくが知っている範囲でのスペイン人はこの自己を無意識なのかうまく使い分けていて、あるカテゴリーでの対立を、もうひとつの自己で補う。そうすることで集団を背景とした個の否定をしない。そうやって「寛容な社会」を作ろうとしているのではないか。思い返せば、向こうで生活を送っている間、何度かそう感じる場面に出くわした気がします。(続く)
 

※今回の件に関して、印象に残ったテキストを2つ紹介します。
小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」姫は城を出て母になる
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伊藤和子–安藤美姫選手に対する常軌を逸した集団マタニティ・ハラスメントについて

 
 
 
-ヒビレポ 2013年7月10日号-

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