四十の手習い 第3回

楽器屋さんに行く

 
海江田哲朗
(第12号で「劇団カクスコ 11年後のカーテンコール」執筆)
 
 

心臓がドクドク鼓動する音。キョロキョロして定まらない視点。落ち着かない気分だ。私はいま、近所の楽器屋さんにいる。ネットで「立川 楽器店」と検索したら、一番上に表示された大型店である。

店内は閑散としていた。だいたい平日のひなかに、Tシャツ、短パンで楽器屋さんをぶらぶらするのは、まっとうな社会人のすることではない。優雅な生活を送っている高等遊民か、よほどのヒマ人か。私が前者であるはずがない。

最も需要が見込めるのだろう、ギターのコーナーが特に充実していた。赤、青、黄色、色とりどりのエレキギター。木のぬくもりを感じさせるアコースティックギター。12万5000円の値札を見ても、高いのか安いのか見当がつかなかった。トランペットやサックスなどの管楽器は、小部屋で仕切られたスペースにあった。ガラスの向こうに鎮座する芸術品。キラッキラ、輝いている。私は少し離れた場所からそれを眺めた。いかにも敷居が高すぎる。ちょっと見せてほしいと言えるような気安さはない。すぐにそこを立ち去り、足早にぐるぐる3周した。何かを見ているようで、何も見ていなかった気がする。エスカレーターを降りた。滞在時間は5分もなかった。
 

 

外は炎天下だ。逃げ込むように喫茶店に入った。アイスコーヒーを頼み、文庫本を広げた。私は深いため息をついた。なんてダメな奴なんだ。楽器選びすらまともにできないなんて。完全に浮足立ってしまった。多種多様な楽器の数々、その迫力に気圧された。写真の1枚も撮る余裕がなかった。家を出るときは、たいそう値の張る楽器を「コレだ!」と見初めたらどうしようと心配していたが、それは杞憂だった。どの楽器も自分と目を合わせようともしない。まったく相手にされなかった。

このままでは引き下がれない。たしか近くにもうひとつ、昔からある楽器屋さんがあったはずだ。アイスコーヒーをぐびぐび飲み干し、私は立ち上がった。立川駅北口、フロム中武の7階にある「山野楽器 サウンドクルー立川」。先ほどの店よりは、やや庶民的な印象を受ける。「いらっしゃいませー」。カウンターの若い女性がにこやかに挨拶をしてくれた。ごく当たり前の接客態度なのだろうが、こちらは劣等感の塊だから何気ないひと言が胸に沁みるのである。よし、ここで買おうと思った。
 

 

今度は多少リラックスできたこともあり、店内をゆっくり見て回った。だが、相変わらずどの楽器もピンとこなかった。そこで、にっこり笑顔が素敵なカウンターの女性にヒントをもらいがてら、話しかけてみることにした。

「あのー、吹くタイプの楽器は全部あっちですか?」

店員さんはきょとんとしている。まずい。ヘンな客だと思われる。この人には嫌われたくないと焦った。吹くタイプってなんだよ。ほかにも訊き方ってやつがあるだろうに。そのとき、苦しまぎれに楽器の名前が口をついて出た。

「ブルースハープとか」

すると、店員さんはハーモニカのコーナーまで親切に案内してくれた。先ほどは見落としていた小さなショーケースにそれはあった。いくつか種類があり、自由に手にとって見ていいという。私は、おそるおそるひとつをつまみ上げ、手のひらに載せてみた。思ったより軽い。手にすっとなじむサイズ感がいいね。値段も約3000円とお手頃だ。決めた。ブルースハープにしよう。すぐにでも吹いてみたくなったが、それは我慢だ。
 

 

さて、どれにしようかな。ニヤけていた私は、ある疑問に直面した。ケースごとに「C」「F」「G」などのシールが貼ってある。なんだコレは? しばらく考えてみたが、正解を思いつくはずもなく、再び店員さんに助けを求めた。この際、自分がド素人であることを明かしたほうが話は早い。かくかくしかじかの理由でブルースハープを所望していると、どうでもいいことまで簡潔に説明した。

「それはキーの記号です。曲ごとにキーがあり、それに合ったハーモニカを使用します。基本はCですね。たとえば童謡だと、Cでほぼ大丈夫です」

私のような音楽の門外漢に対し、店員さんは見下すふうもなくいろいろと説明してくれた。パンフレットを指し示しながら、懇切丁寧に。なんてイイ人だ。彼女の言葉は、甘い調べのように耳に響いた。惜しむらくはこちらの知識不足。おそらく基礎的なことを相当かみ砕いて話してくれているにもかかわらず、1ミリも理解できない。

とりあえず、大事なことはわかった。今回の場合は曲を決めるのが先決。楽譜を持ってくれば、適合するブルースハープを出してくれるという。ナンテコッタイ。出直しだ。

目的は達せられなかったが、気分は悪くなかった。一応、一歩前進である。私は、お世話になったやさしい店員さんをモニカさんと勝手に名付けた。ハーモニカだから、モニカさん。中高生の発想だ。同じことをおっさんがやると変態だ。でもいいんだ。心の中で呼びかけるだけだから。

てくてく歩きながら、自然と鼻歌がこぼれる。すっかり、ごきげんだ。フフフフーンと昔から好きだった曲を口ずさみながら線路の下のトンネルを抜け、坂道を上った。あっ、この曲なら、イケるかもしれない。

 
 
 
-ヒビレポ 2013年7月20日号-

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