スペインは情熱の国だと、誰かが言った。 第5回


SIEMPRE CON NOSOTROS(いつも僕らと共に) 編

 
島袋寛之(第8号で「図書館で探りを入れる」執筆)
 
 
 

 前々回はすっとばしてしまい、申し訳ありません。身の回りでいろいろ起こったり、思いっきり体調を崩したりと、頭も体も状況に追いつかず、久しぶりに倒れました。今年もまだまだ暑くなりそうだけれど、どうにかうまく、体が思い通りに動くうちにしっかりと仕事も人生も楽しみたいなと、痛む胸と熱にうなされながら思いました。

 何回経験しても相変わらずどうしても慣れないものですが、少し前に年下の友人が亡くなりました。バーベキュー中にひとり上流に向かい、そこで何があったのかはもう知りようが無いのですが、彼がいないことに周りが気付いて探した時にはすでに、川底に沈んでいたようです。彼はぼくが所属しているバスケットボールチームのメンバーで、誰からも愛される、そんな言葉なんてすごく軽く感じてしまうような、でもそれ以外に表現のしようがないような、嫌いになりようがないヤツでした。率先して大勢が集うイベントを企画して、バスケの交流戦をセッティングしたり、スポーツを通じて横のつながりをどんどん拡げていく。大好きなアウトドアに触れていたいと自らもアウトドアのアパレルブランドで働いていた彼が、大自然に抱かれた川底でその人生を終えたのは、皮肉なのか、それとも幸せなことなのか。人の死にさえ勝手なストーリーを付けてしまいそうになる自分に、嫌気がさしたりもします。
 

 

 その日はしばらく続いた雨が止んで、前日までの夏の真ん中とは思えないような涼しさは、かけらも感じられませんでした。久しぶりに袖を通した喪服のせいもあって、汗がだらだらと流れていきます。慣れない小田急線に乗るので少し早く着きすぎた代々木八幡の駅前商店街を、「そういえば一度だけ来たことがあったな」と見覚えのあるコンビニを横目に通り過ぎて葬儀場への角を曲がると、時間まではまだ少し間があるのに、会場に入りきらない参列者が道路へとあふれていました。彼の分けへだてない人柄そのままに、年齢も、見た目も、様々な人が挨拶を交わしながら思い出を語り合っているのが聞こえてきます。その光景を見て、「ああ、自分の時にはこんなに人が集まることはないんだろうなあ」と少し寂しい気もしながら、その中にいられてよかったなと、彼との繋がりに感謝をしたりもしました。まるで現実感のない頭の中で、そんな勝手なことをまた、彼に押し付けながら。

 焼香を終えて外に出ると、まだまだ集まり続けている人の列に、ふと6年前の夏のことを思い出しました。

 ここ数年は日本のメディアでも取り上げられることが多いので、スペインにおいてサッカーが熱狂的に盛んなのは説明するまでもないかもしれません。ぼくのいたセビージャもその例外ではなく、都市の名を冠した富裕層に支持されると言われる「セビージャFC」と、労働者階級に支持されると言われている「レアル・ベティス」が街を分けて、多くの人の生活の一部になっています。普段「フットボールなんて興味ないよ!」と話す人々も必ずと言ってい程その2チームのどちらかを応援していて、セビージャとベティスのどちらが優れているかという話になると、声を荒げていかに自分のひいきのチームが素晴らしいのかを叫びます。スポーツとしての「フットボール」に興味が無くても、チームの存在そのものを誇りに思っている。日本ではさほどサッカーの文化に触れたことが無く、それに近いような感覚さえ持ったことのないぼくにはそれがとても新鮮で、理解が難しいものでもありました。

 その2チームが直接対戦する「ダービーマッチ」の日には、街をあげての大騒ぎ、騒乱とも言える空気に街が包まれます。家々の窓にはチームの旗が掲げられ、朝からダービーの話題で持ちきり、そこら中でののしり合いが始まります。ぼくも少しするとその熱におかされて、気が付けばすっかりセビージャファン「セビジスタ」になっていたのですが、数あるグループの中でも少し過激な連中が友人に多かったので、ベティス一派、「ベティコ」との小競り合いに巻き込まれることもしばしばでした。ダービーのある日、朝から集まり酒を飲んで、試合が始まる前にはすっかり出来上がっていたぼくらの中の数人が、ベティスの旗を掲げて走っている車に向けてビールの瓶を投げつけていました。「それはやりすぎだろ、ただの暴徒じゃないか・・・」と思いましたが、みんな平然としているし、何度も目にするうちにそれにも慣れてしまったのですが。試合前のスタジアム付近はさらにひどい状態で、イケイケのグループ同士が殴り合っているのは当たり前、それを踏まえて警備している警察に連れて行かれるまでがワンセットの風景でした。

 
セビージャのスタジアム『サンチェス・ピスフアン』
この日はバルセロナとの一戦

 

 そんな中、この国の人々がいかにフットボールを愛しているのか、大切にしているのかを目の当たりにする出来事が起こり、ぼくはその文化に対して深く根ざした愛情を、本当の意味で垣間見ることになります。

 
試合前の「セビジスタ」たち
 

 2007年8月25日、その日はセビージャのホーム、サンチェス・ピスフアンでのシーズン開幕戦でした。あの独特の空気は言葉ではうまく言えないのですが、前年に素晴らしい成績をおさめ、数十年ぶりにヨーロッパでのカップ戦のタイトルを手に入れたチームは、そのシーズンの展望にも大きな希望を抱いて望み、試合が始まる前にもかかわらずスタジアムは最高潮の興奮状態でした。対戦相手だったヘタフェCFは完全にその空気に飲み込まれているようでした。セビージャが圧倒したまま進んだ試合も中盤、その瞬間が訪れます。前年の躍進に大きく貢献し、初の代表にも選ばれ、長い低迷からようやく抜け出したチームのまさに中心で光り輝いていた、アントニオ・プエルタがピッチに倒れ込みました。攻め込まれつつあったセビージャ陣営にあったボールを追っていた観客の目が、彼に集まります。しばらくして立ち上がり、担架に運ばれることもなく自分の足で外に出たプエルタは、その3日後、搬送先の病院で息を引き取りました。

 学校帰りの夕方、ぼくの携帯にセビジスタの友人から連絡が入りました。「プエルタはダメだったらしい」。一旦家に戻ったあとその友人と落ち合い、遺体が運ばれるとの話だったサンチェス・ピスフアンに向かいました。その日の深夜、プエルタを乗せた車が到着したとき、赤がチームカラーであるセビージャのユニフォームを着た人々に混じって、緑のユ二フォームが見えました。少なくともこの街でフットボールを口にする時、絶対に相いれないと思っていたベティコたちです。それも数人じゃない、多くの人々が連れ立ってセビジスタたちとともに追悼をささげている。無数のキャンドルが掲げられ、その灯りに照らされたスタジアムの前で、赤と緑が混ざりあい、誰もが自分の夢を重ねたくなる、そんな一人のフットボール選手の死を悲しんでいました。

 
 街中に掲げられた、プエルタを哀悼する旗
 

 明けて翌日の夜、再びサンチェス・ピスフアンを訪れると、前日よりもさらに多くの人々がその周りを取り囲むようにして、それぞれに祈っていました。スタジアムの壁にはプエルタの写真やチームの旗、それにメッセージを添えたものが捧げられています。中にはマドリッドやバルセロナ、セビージャから遠く離れたバスク地方のチーム、ビルバオのファンの署名もありました。そして、セビージャ出身で、プエルタの親友でもあるマドリッド、スペイン代表の要セルヒオ・ラモスは、今でも大事な試合の後にユニフォームの下に着込んだTシャツに記したメッセージを掲げます。「ANTONIO PUERTA SIEMPRE CON NOSOTROS(アントニオ・プエルタ いつも僕らと共に)と。
 
 
 
-ヒビレポ 2013年8月14日号-

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