薔薇の木にどんな花咲く?  第8回


竜 超
(第12号で「『薔薇族』継いじゃいました。」執筆)
 
コミック◎猪口コルネ
 
 
 

おねェ系同性愛者を〈ゲテモノ道化〉として便利づかいするバラエティも困りモンですが、じつはソチラ以上に僕のアタマを痛くさせるテレビ番組が存在しています。
それはいわゆる〈福祉系〉と呼ばれるジャンルで……そう、あの「日本の地上波で唯一、受信料を徴収している局」が作っているシロモノです。
「……えッ? 福祉系番組なら、ゲイの抱えている社会的問題とかもマジメに取り上げてくれて、アナタには好都合なんじゃないの?」
こんな疑問を抱く方が多いかと思いますが、いやいや、その〈マジメさ〉が問題なのであります。
あのテの番組の、僕が最もマズイと感じる部分は、制作サイドが〈社会的弱者〉という括りで同性者全般を捉え、筋違いな親切をマジメに押し付けてくるところなのです。
 

 

たとえ「ドキュメンタリー」と銘打たれたものであっても、そこには必ず〈制作者の意思〉というのが働いており、作り手の意図した結末へ向かって番組は進行していきます。
福祉系番組におけるソレは「同性愛者=様々な問題に悩んでいる気の毒な人々」という先入観であり、そこから喚起されるのは「我々が救ってやらねば!」というハタ迷惑な〈保護意識〉なのです。
以前に僕は、同性愛について扱う福祉系番組のプロデューサーとディレクターに会って話したのですが、少なくともディレクター(育ちの良さそうな若い男性)のほうは〈純然たる善意〉に基づいて制作している様子でした。
これがもしもバラエティ系のテレビマンのように〈ビジネスライクの興味本位〉であるならば、こちらとしても容赦なく叩けるのですが、あちらの場合は〈ピュアな親切心〉でやっているのでどうにもやっつけにくい。
さっき僕が「マジメさが問題だ」と云ったのには、こういう理由があるのです。

制作者の「同性愛者=福祉の対象である気の毒な方々」という先入観に基づいて作られた福祉系番組……。
まァ、誰ひとり観てないのであれば流れていても別に問題はないのですが、困ったことに「アレコレ悩んでいるゲイほどそのテの番組を観てしまう」という傾向が強いのです。
悩めるゲイが〈ゲイ=悩み多き存在〉と描く福祉番組を観る→「嗚呼、やっぱり自分が悩むのは必然なのだ」と納得する→同じメンタリティのゲイたちと結びついて、無限の〈お悩みスパイラル〉へとハマっていく……。
こうした悪循環例を僕はいくつも目の当たりにしてきているので、だから老婆心ながらアレコレ云ってしまうわけなんであります。
たとえば福祉系番組の次に、くっだらない〈おねェ系バラエティ〉とかでも観るのであれば脱力感で意識が中和されるかも知れませんが、あいにくと悩めるゲイには「報道番組しか観ません!」みたいなお堅い方が多いのです。
マジメな勘違いテレビマンが作った福祉系番組を、マジメな悩めるゲイが観ることで「マジメ×マジメ」の二乗効果が作用し、事態はなおさらヤヤコシクなっていきます。

とはいえ、です。
ゲイ事情に明るくない視聴者に〈悪しき幻想〉を植え付けかねない福祉系番組の描き方は問題だとは思いますが、そこで描かれているよりも更に深刻な状況におちいっているような方々も確かに存在します。
それはハデハデしくて、一見すると悩みなんかとは縁のなさそうなおねェ系ゲイにしても例外ではなく……というか「悩みに悩んだ末に出した結論」として、そういう生き方を選択された例も少なくないのです。
「自分がゲイだと自覚した瞬間、もう人生は終わったと感じた」
「ゲイである自分は一生、幸せにはなれないんだと思っていた」
こんなことを口にするおねェ系の方々に相当数、僕は会ってきました。
こちらの偏見かもしれませんが、こうした人たちには「ゲイ自認をしたのが思春期以降」という共通点があるような気がします。
もともと思春期(第二次性徴期)というのはホルモンのバランスが崩れるせいか、一生のうちでも際立って精神が不安定になる時期です。
そこに「自分は社会的マイノリティ」という重たい事実が加わるのですから、まァ悩むのは道理なのかも知れません。

僕の場合は、幼稚園の頃から「自分は同性愛者である」という自覚がありました。
「下手の考え休むに似たり。判らないことがあったら独りでウジウジ悩んでないで、さっさと調べに行け!」
と、まァこんな方針の親のもとで育ったので、僕は小学校の2年か3年性のころに図書館に行き、子ども用の性教育書をひもといてみました。
するとそこには同性愛について「少数派の性ではあるが、べつに異常なものではない」と書かれてあったので、「……うん、なるほど」と納得して本を閉じたのです。
以降、そのことで僕が悩んだりすることは一切ありませんでした、
もしかしたらハシカと同じで、ゲイ自認は幼い頃にしといたほうが軽いのかも知れませんネ。
思春期以降になると、すでにアレコレ世間の無責任な物云い(=悪意や偏見)が脳内にインプットされているので、不要なショックを味わったりするのだと思います。

そうそう、これは意外な話なんですが、多くのゲイたちを絶望のどん底に突き落としてきた〈悪役〉というのがいたそうです。
それはホントに意外なんですが、あの『広辞苑』であるといいます。
当事者団体からの抗議によって1991年発行の第四版で改められるまで、『広辞苑』における同性愛は「同性を愛し、同性に性欲を感ずる異常性欲の一種」と定義づけされていたそうなんです。
それを読んだ多くのゲイたちが「そうか、自分は異常性欲者なのか……」と絶望感にさいなまれたんだとか(現在の定義は「同性の者を性的愛情の対象とすること。また、その関係」であるといいます)。

この話を聞いたとき、僕の脳内にひとつの疑問がわきあがりました。
「……なんでまた『広辞苑』なんか見るんだろ? 性にかんする事柄だったら、僕みたいに〈性教育書〉で調べればいいのに。そうすれば、ムダに悩んだりすることだってなかろうに……」
その疑問の答えを、ひとりの知人が与えてくれました。
「竜サン、それはネ、『広辞苑』というのが世間における〈権威〉だからですヨ」
そう云われて「あァ、なるほど!」と、僕はひざを打ったのです。
「そうか、僕は〈権威〉というのを小バカにする家に育ったから『広辞苑』を見なかったのか……」
良く云えば「独自性を重んずる」、悪く云えば「偏屈」なオヤジをもった僕は、世間一般が無思考にアリガタがったり、無批判に受け入れるようなことを「信じるな」と教えられながら育ちました。
権威にたいして背を向けるような生き方は、ときに周囲との軋轢(あつれき)を生んだりしますが(ゲイには権威主義者が少なくないので)、しかし〈孤高〉というものの価値さえ知っていれば(なんて云うとキザですが)さほど痛痒は感じません。
それよりも「つまらないモノに振り回されない快適さ」のほうがはるかに大きくて、かなり楽ですゼ。

と、またぞろ〈福祉系番組〉の話にもどりますが、その制作局はテレビ界最大の〈権威〉ですよネ?
そう! ここでもまた、権威というのが悩めるゲイを増殖させているわけです。
日本人は「人はみな平等」となったはずの今日でもなお〈お上〉なんてコトバを好んで用いるような国民性なので、「権威にツバを吐け!」的なロックンロール発言をしても容易には受け入れられません。
けれども、せめてゲイ関連の事柄についてだけは〈脱・権威〉〈脱・常識〉で行きたいところであります。
それを実践してきたおかげで、竜超はソコソコ楽しく生きていますゼ……って、僕ごときを例に挙げたところで、「まァ素敵!」となるような方はあまりいないでしょうけども。

 
 

 
 
 
 
-ヒビレポ 2013年8月22日号-

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