四十の手習い 第8回


子どもを泣かす

 
海江田哲朗
(第12号で「劇団カクスコ 11年後のカーテンコール」執筆)
 
 

おかしい。こんなはずではなかったのに。教則本の「やさしい練習曲」の2曲目、「赤とんぼ」にまったく手も足も出ない。世にも不気味なメロディーに、気分が暗くなりそうだ。なんとかなるだろうと見切り発車で始めた当コラムだが、一応、おおまかな予定表は頭のなかにあったのだ。全12回を3つに分け、それぞれ目標を設定していた。

【第1〜4回】 自分にマッチする楽器との邂逅。苦い記憶を払しょくし、音楽を楽しめるようになる。
【第5〜8回】 悪戦苦闘しながら、徐々に技術が上達。人間やればできるんだなぁと思わせる。
【第9〜12回】 簡単な曲ならそらで吹けるように。表現力を磨く段階に入る。眠れる才能が目覚めるかも。

まあまあうまくいったのは第1段階まで。現在、第2段階の最終局面まできているのに、技術なんてこれっぽっちも身につかない。まいったなぁ。このままではモチベーションの維持すらむつかしくなる。だって、手応えが乏しすぎて、つまんないんだもん。
 

 

そんな折、名古屋で暮らす弟夫婦が盆休みを使い、埼玉県朝霞市の実家に帰省すると知らされた。息子の蒼太(1歳6ヵ月)も一緒だ。だいたい半年に一度のペースで会っているが、甥っ子の蒼太はまったく私になつかない。抱っこをしたときは、身体が石のごとく硬直。5秒も視線を合わせれば、盛大に泣く。この世の終わりとばかりに泣きじゃくる。そこで、「おまえ、男がめそめそしよったら、いかんやろうが」と言おうものなら、ワンオクターブ高い声でさらに泣き叫んだ。

これは、またとないチャンスだ。楽器の演奏は個人的な楽しみだが、やはり人に聴いてもらってナンボである。喜んでくれれば、単純な私はやる気がもりもり出る。残念ながら、私のブルースハープは大人に披露できるレベルではない。だが、1歳6ヵ月の幼児が相手なら、どうにかこうにか通用するはずだ。また、ハーモニカの伯父さんとして接することにより、ふたりの距離が急激に縮まるかもしれないという下心もあった。両方うまくいけば、まさに一石二鳥である。

妻と実家に赴き、久しぶりに会った蒼太は以前と変わらず警戒心を露わにしていた。母親(私にとっては義理の妹)にくっついて離れようとしない。いいさ、そのうちおまえは私に興味を示さずにはいられなくなる。ブルースハープの音色に心を奪われ、急になれなれしくしてきても、そう易々とは吹かせてやらないからな。私は余裕たっぷりに甥っ子と距離を取り、一家団欒の食事を楽しんだ。

しばらくすると、蒼太はマットにうつぶせとなり、うつらうつらしていた。よし、試しにいっちょやってみよう。私は少し離れたところから、唯一完奏できる「キラキラ星」を吹いた。ブルースハープを子守唄に、さぁ眠りにつくがよい。蒼太よ、おまえは何もかも忘れてしまうだろうが、私はずっと憶えているぞ。おまえに初めて楽器の音色をナマで聞かせたのは、この私だ。

 
すやすや寝やがった。成功だ!
 

やがて、蒼太は浅い眠りから目覚めた。相変わらず、両親にべったりでこちらに近寄ってくる様子はない。そこで、おもむろにブルースハープをくわえ、「キラキラ星」を奏でた。もろに聴かせるふうではなく、伯父さんが気ままにやってますよの雰囲気で。

どうだい、楽しい気分になってきただろう? チラッと蒼太の顔を見て、愕然とした。ひとつも笑っていない。眉を下げ、弱りきった顔。そこには恐怖の感情がありありと浮かんでいる。予想もしなかったリアクションに焦った。だが、曲のレパートリーはほかになく、ひたすら「キラキラ星」をゴリ押しするしかなかった。まさかここで拒絶反応に遭うとは考えていなかったのだ。

 
恐怖に駆られ、父親にしがみついて離れない。困惑しきっている。
 

その後の展開はいつもと変わらなかった。ブルースハープを吹きながらにじり寄る私に対し、限界に達した蒼太は全身を震わせて泣いた。動揺が激しすぎるため、隣の部屋にいったん隔離する事態にまで発展した。惨敗だ。何もかもうまくいかなかった。

がっくりうなだれる私の横で、妻がブルースハープを奏でている。「赤とんぼ」だ。ちゃんとメロディーになってる。えっ、なんで吹けるの?

「楽勝だよ、これ。ハーモニカなんて小学生以来かなぁ」
 
 
 
-ヒビレポ 2013年8月24日号-

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