どす黒い私  最終回


 
和田靜香
(第13号で「ホドがある! 新聞一面トップ どうして私が?!」を執筆)

 
 
 

 よもやの東京オリンピック開催決定にうろたえる日々。世界規模で見たくない現実は見ないようにして、「とにかく金儲けをする」度はMAXに達してんだなぁと思うと、ため息ばっかり出ちゃって、「こげな東京、いだぐね。おら、田舎さ帰るべ」と、見てもない「あまちゃん」の口調を真似てつぶやくばかりだ。

 田舎に帰る。すべての地方出身者が何度かは思い、迷う決断。今、それが徐々に現実味を帯びてきている。しばらくは実家に身を寄せ、しかしそこは姉一家の家だからそのうち近所にアパートを借りて……とか。仕事を探し、畑もやって、と考える。人生でこんなに田舎に帰ることを現実的に考えたことはない。18歳で名前も忘れちゃったいい加減な専門学校に入学するために沼津から上京してずっと、田舎に帰るって選択肢は私にはなかった。

 思い返せば20歳の秋、就職試験にぜんぶ落ち、始めたばかりのアルバイトも1週間でクビになった。乃木坂にあったフランス料理店だ。いよいよ途方に暮れ、目の前は真っ暗で、先はまったく見えなかった。そのときもしかし、田舎に帰ろうとは思っていなかった。

 そこへ1枚のハガキが届いた。ピンク色の音符マークが背景に飛んでるハガキで、差出人は「湯川れい子」とあった。遠くに見たことはあっても、会ったことも話したこともない、その人は当時の私には遠い遠い人だった。
 

 

 ハガキにはしかし「その後、仕事は見つかりましたか? もし良かったらうちでアルバイトしませんか?」と、信じられないようなことが書いてあった。「じぇじぇじぇっ!」と叫んで(嘘です)、何度も何度もそのハガキを読んだ。少し前に「就職試験にぜんぶ落ちてしまった」と書いたハガキを1枚、「全米トップ40」という、その人が当時DJをやっていたラジオ番組に送っていた。そのずっと前、高校時代の2年間、毎週毎週、番組にハガキを送る、私は常連だった。でも番組にハガキを書いたのは1年以上振りだったと思う。

 ドキドキしながら、ハガキにあった番号に電話をした。最初に秘書の女性が出て、それからその人に代わった。「はい、湯川です」と出てきた声はラジオで聞いてるのとまったく同じ。当然だ。でも、「はい。和田さん。こんにちは。一度とにかく私のスケジュールに合わせて来てくれる? 今、秘書と代わるから」とだけ言うと、あわただしく先ほど出た秘書の女性に代わってしまい、私のおずおずとしたお礼とか、「あの、私でいいんでしょうか?」とかいうグダグダなどには一切耳を貸さず、アッという間に電話を代わられてしまった。忙しそうな人だな……そう思った感想は今もまったく変わらない。その通りの人だ。

 そうして私はまだ通っていた学校帰りにノートや教科書を抱えたまま、働き始めた。秘書の女性が急病で入院してしまい、「とにかく電話に出るだけでもいいから、来てちょうだい」と言われて、わけも分からないままその人の部屋の片隅にある机に座り、資料をポチポチとファイルに仕分けしたりしながら、電話番をしていた。しかし電話に出ても、ただ出るだけ。日本語なのに、相手が何を言ってるのかさっぱり分からない。いちいち「先生、あのぉ」と代わってもらわなければならず、忙しいその人はさらに忙しそうに電話に出ると、ものすごい早口で話し、側で聞いていても何を話してるのかまたさっぱり分からなかった。私、まったく役に立ってないな、と思って「今度もクビになっちゃうかも?」と心配し、それにラジオでは「アッハハハハハハハハハ」と豪快な笑いを飛ばしているその人は私の前ではまったくそんな笑い声を放つことはなく、「私はこの人を笑わすことができない」などと、どうでもいいことにウジウジ悩んでいた。

 そんなこんなで3ヶ月が過ぎ、4ヶ月が過ぎ、「クビに?」とビクビクした日々をなんとかやりすごした。しかし、お客さんの目の前で怒鳴られ、トイレでウニウニ泣いたりもしたし、玄関にスコーンっと靴を脱ぎっぱなしにしていたら、「だらしがない!」とまた怒鳴られ、「うるせぇな」とふてくされたりもした。日に日に慣れて、最初の「私でいいんでしょうか?」とかいう、謙虚な気持ちはアッという間に消えうせていた。

 その人は最初に思ったのより何倍も忙しそうで、画用紙で作ったスケジュール帳は真っ黒になるくらい埋まっていた。ちょうど「恋におちて」とかヒット曲が次々出ていて、忙しさもピークだったのかもしれない。食事中も送られて来た手紙や雑誌を読んだり、あれこれ私に指示したり、まったく落ち着かない。「この人はどうしてこんなにあわただしいんだろう?」なんて、あわただしいから自分もオマンマ食わせてもらってるなんてことは微塵も思わず、もちろん「忙しいけど、身体に気をつけてね」なんて労わることも一切なく、ただ呆れたり、うんざりしていた。

 家にはその人の夫と息子がいて、息子は学校から帰ってくると一目散に「ママ〜っ!」と叫んで仕事部屋のドアを開ける。インターナショナルスクールに通っていたその子は英語と日本語交じりの言葉であれこれ言うのだが、ママは忙しい。ろくすっぽ相手も出来ずにいると、「シット! ファッキュー、マム!」と英語で叫び、バ〜ンッとドアを閉めて自分の部屋へ飛んで行く。ママは「いい加減にしなさいっ! 仕事で忙しいのが見えないのっ?」とこれまた大きな声で叫ぶ。ママが家にいる限り、毎日そんな感じで、私は子供の話ぐらい聞いてあげればいいのに、と思っていた。子育てしながら仕事をする母親の苦労になんてコレっぽっちも思いは至らず、「なんでそんなに仕事するんだろ? 子どもが可愛そうじゃん」そう考えていた。それでいて息子が「ゲームしよ」なんて言ってくると、「面倒くせぇな」と、いい加減に相手をしていた。

 私にとって一番イヤだったのは、その人の夫が家に来ることだった。自宅なのだから家に来るのは当たり前なのだが、その人の夫は当時、いつも般若みたいな顔をしていた。不機嫌で、それを辺りに撒き散らす。その人にも私にも、家にいたお手伝いさんの女性にもあれこれ命じたり、誰かの悪口を言ったり。それに対してその人は一切の反論もなく、まるで服従するように「そうね、そうね」と同調し、「パパは一家の大黒柱だから」みたいな、歯の浮いたような言葉を返す。「なんで映画に出てくるセリフみたいなことを交わしてんだろ、この夫婦は。変なの」と私はその場の空気にヘドが出そうな気がして、その人の夫が帰ってくると露骨にイヤな顔をし、奥の部屋や地下にあったレコード室に逃げ込んだ。

 あの頃はいい妻をひたすら演じていた。でも胸の奥底では相手をバカにしていたと思う。それは見透かされていただろうね。

 そう言われたのは、その人の本を作ることになった一昨年のこと。やっぱりそうだったのか、と思ったのと同時に、その頃のその人の悲しみを思った。仕事は人生第二のピークというほど成功し、誰からもチヤホヤされ、でも一番側にいる人とは心が通っていない。今、私があの場にいたら、夫が家を出た後に、ソッとその人の背中に手を添えたい。言葉はなく。

 今になれば、その人は世間のイメージとかとは裏腹に、けっこう不器用な人だと分かる。不器用さの中で必死に人生を己の正しいと思う方向へ引っ張っていこうとする。いい方向へ行ってると自分に信じさせ、前をひたすら向き、進んで行く。色んなものをなぎ倒しながら。それに、その人は実はけっこうな照れ屋で、なかなか本当の本当の本当は言えない。一番最初に電話したときにアッという間に秘書の女性に代わられたのも、あれは照れだったんじゃないか?などと思う。そう言ったら「ええっ? 違うよ」と絶対に言うだろうけど。「和田さん、よろしく。頑張ってね」なんて身近な人間には(そのときはまだ身近じゃなかったけど)言えないタイプだと思う。
 まだまだ「あまちゃん」だった(!)私にはそうしたあれこれをぜんぜん理解できず、いつも斜め目で見て、その人を理解しようなんて全く思わなかった。しなかった。

 それでも人間の縁とは不思議なもので、なんだかんだで30年近くもその人とは繋がり、去年はその人の評伝を書いて、それでやっと、その人がどんだけ強い思いで仕事を手にしたか、それを手放さないためにどんだけ多くを犠牲にしてやってきたとか、自分に合わせて考えることができて、やっと初めてその人を少しは理解した気がする。人を理解する。それって、本当に時間がかかるんだ。

 これが私が長いことずっと溜めていたどす黒さ。と思ってきたけど、ぜんぜん黒くないわ。逆になんだかいい人みたい。シット!ファッキュー、自分。いい人なんて、ちっとも面白くない。どす黒さ、さらに磨きをかけたいと思います。3ヶ月間、どす黒にお付き合いいただき、ありがとうございました。

 
 
 
 

-ヒビレポ 2013年9月27日号-

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