ハルヒマヒネマ 4−1

わかるヤツだけわかればいいのココロ

 
やまだないと(「料理入門」連載中)
 
 
 
 
 
半年ぶりです。
この半年、なにをしてたかというと、その他大勢の名も無き日本人の一人として『あまちゃん』をみてました。
おかげで、ハルヒにも北に思い出ができました。やっぱり、同じ国で起こった「出来事」でも、住んだことも行ったこともなければ、知った人もいばければ、どこか遠い、想像上の、場所でしかなかったから。思い出のない場所の事を、ハルヒはほんとうに思いやれてなかったと思う。
そんな半年間、ハルヒがいらーっとしてたのが、『あまちゃん』が放送されるや、連日飛びかう「オマージュ」って言葉。なんだか暗号解読クイズとか宝探しゲームとかしてるみたいな。オマージュってさ、ハルヒ、捧げるものだと思うんだよね。他人がさ、したりがおでオマージュ、オマージュって、ここにもオマージュ、これもオマージュってさ、ハルヒがもしクドカンさんだったら、「チッ」って、ユイちゃんばりに舌打ちだよね。
イセシマさんがやってた花巻さんが言っていた。「わかるヤツだけわかればいい」ってのはさ、ハルヒ、おらはひとりでいい、仲間欲しくてネタしこんでんじゃねえ、と解釈してた。
 


 
 

『風立ちぬ』2013 日本
D/W:宮崎駿 A:庵野秀明/滝本美織/西島秀俊

美しいアニメ映画だった。大きなスクリーンの中の避暑の高原にはクガイソウ、ヒメジョオン、あざみ、へびいちご、花がたくさん咲いていた。
美しい日本の、ものや言葉やくらしや風景がこの映画の中にずっと残るのがうれしいなと思った。好きなシーンは結婚式のしきたりを、きりっととりおこなう準備のある黒川家。よい服を着て、よいものを食べて、よい教育をうけるひとたち。
でも、その美しさに感じるのは、二郎もハヤオも、この美しい映画のような人や暮らしや風景ばかりを観てきたわけじゃないということだ。それはハルヒだってみんな同じだ。みんな知ってる。そういう事ほとんど具体的には描かれないけれど、知っている。それで、世界がほーんとにこれだけだったらいいのになあと辛くなる。
ハルヒ、よくいわれてるような、二郎さんって美しいものにしか興味がないひとにはみえなかったんだなあ。二郎さんは子供の時から、興味をもったもの、おもしろいもの、好きになったもの、を、「美しい」と感じる人なんだろう。心を動かされることが「美しい」んだと。
だから菜穂子の事を美しいって思うんだと思った。美しいから好きなのではないと思う。
美しい姿を残して菜穂子がひとりで去っていくのは、菜穂子がそう生きたいからだと思う。ハルヒがこの映画の菜穂子を好きなのは、菜穂子が人目にかまわず、自分の好きに生きる女の子だから。ハルヒが菜穂子でもああしたい。
そういう菜穂子が「男の理想の」「男に都合のいい」女に見える人は、きっと、自分が他人に都合良く生きれる人だ。
むしろ、ハヤオはさ、二郎さんが好きだから、オレが菜穂子ならこう生きたいって姿なんじゃないかと感じた。こう生きるべきじゃなくて、こう生きたい。こういう風に二郎と恋をしたい愛したいって。
ハルヒだいたい映画の中の(監督にとっての)異性像が、オレが女の子なら、ワタシが男の子なら、って描かれかたしてると感じると好きになるんだよね。
女ってこういうとこがあるとか、他人事なのは、観察眼に感心はしても、特に好きにはならない。
最近のアニメは、とにかく、描写がリアルで、実写にとても近い演出を漫画の絵でやるのが流行ってるようだけど、恋愛に関しては、非情に幼く、理屈っぽく、ハルヒが楽しめるものには出あった事がないんだけれど、まさかミヤザキハヤオがみせてくれるとは思わなかった。
恋愛をみせようというよりも、ハヤオ自身が物語の中で理想の恋をしているようだった。

たぶん、絵を描く人がみにいったら、真っ先にへえ!と思うのが、二郎さんの眼鏡だろう。
眼鏡にレンズが入っている。
メガネって、漫画では記号っぽく、顔の造形っぽくなりがちだけど、あれは、ほんとは、かけたり外したりするもので、『風立ちぬ』のメガネは、ちゃんとかけたり外したりするメガネとして描かれてたから、かけてない時の二郎さんと菜穂子も想像できた。
菜穂子はいつもメガネ越しに二郎さんに見られてたわけじゃない。
そりゃあ、映画で見れるとこではいつも二郎さんはメガネをかけていたけれど、たとえば、お布団はいった後はメガネ外すでしょ?朝起きていちばんの顔はメガネないでしょ。疲れたらメガネ外すでしょ。お風呂では外すでしょ?眼鏡かけてる人は自分のめがねとの付き合いを思い出せばいい。菜穂子はそういう二郎さんといつも一緒にいたわけだから。
眼鏡かけてる二郎さんにしか会えない人にはわからない、菜穂子が観ている二郎さん。菜穂子にみせている二郎さん。二郎さんが裸眼で観ている菜穂子。
他人がみると菜穂子は家でもお化粧してるけなげな人かもしれないけど、二郎さんはお化粧してない菜穂子もみてる。それだって、お化粧してない菜穂子を見ていない、たまに菜穂子に会う人にはわからない。
二郎は、菜穂子のやつれた顔をみても美しいと感じると思うし、菜穂子の生き方を美しいと共感してると思う。
眼鏡にレンズが入っていることを描くだけで(つまり、度の高い分厚いレンズが入っているので、屈折して、目が2重になったり、ずれたりしてる)そんな、映画には映っていないふたりが描かれている。
それから、全編に漂う煙草の匂いもすごく良かった。特に静かな夜の煙草。ハルヒが奈緒子だったら想い出は二郎さんのチェリーの匂いだ。
一緒に暮らさなかったら、知らなかった二郎さんの匂い。
ひとり療養所に戻っても、その匂いがずっと一緒にある。
あーほんとうに美しい映画だ。

二郎さんは夢をみる。夢というのは、都合のよいファンタジーではない。あれは、自分だ。夢って自分自身でしょ?
二郎の夢は二郎自身で、カプローニさんの夢は二郎の夢だし、二郎に生きてという菜穂子もまた二郎。だって夢なんだもんね。
夢のむなしさは、みんな知っている。ほんとうはそうじゃないことを知っている。
ほんとうはそうじゃない。でも、それはわかって欲しい事ではない。それをわかってもらう事が、自分が生きる意味ではない。
他人は、それぞれ、お互いが見えているところだけを知っていればそれでいいと思う。真意を伝えたい人は行動に表し、言葉をつくせばいいと思う。
表さない人もいる。つくさない人もいる。
(荒井由美の「ひこうき雲」は、ハルヒにはいらなかった)

ところで、ハルヒ、あの唐突に、クレソンというか山盛りの草を食べるおじさんをみて、あ、二郎さんにしかみえないもののけだ!山の人だ!と早合点したので、危うく、違う話になってしまうとこだった。
ハヤオのアニメの外国人の目は綺麗ですね。鬼みたいで。虹彩がぐるーっとまわる。
日本人の目は黒々底なし沼のようだ。
 

『わたしはロランス』2012 カナダ/フランス
D/W: グザヴィエ・ドラン A: メルヴィル・プポー/スザンヌ・クレマン

ハルヒが前に借りてた仕事場は、新宿南口の高島屋んとこの橋を渡った代々木っ側にあったので、なんとなく、ハルヒはそこをパリの橋「ポン・ヌフ」に空想し、渡った高島屋と紀伊國屋をそれこそ今は無きサマリテーヌとコンフォラマと、そうすると映画を観にいく新宿はレ・アル。まあ、ほとんどTSUTAYAにしかいってなかったけど。映画館が普段使いできる人になりたい。
武蔵野館に『クロワッサンで朝食を』を観にいったら、レディースサービスの日もあって満員だった。奥さん方が友達連れで観に来てた。おばあさんが立ち見を言い渡されて、まあ、ここで、男の子が、席を譲ったりしたらかっこいいのにって思ったけど、そういう男の子はあらわれず、ハルヒも立ち見はいやだったので、ちょっといった先のシネマ・カリテで『わたしはロランス』を観た。
すでに試写でみせてもらっていたのだが、雨降りだったし、他にちょうどいい時間でやってるやつなかったし。
それに、この映画、なんかすごく変なのだ。変な余韻が残っていたのだ。
結局、なんだったんだろう??

メルヴィル・プポー演じるロランスは、ある時、恋人フレッド(という名前だけど女の人)に、自分はずっと女性として生きたかったんだと告白する。フレッドはもちろん混乱するのだけれど、自分が愛した男の子が、「ふつう」と違う事を受け入れる事こそが自分だという想いが沸き起こる。それはちょっとした冒険心なのかもしれない。でも、これは恋人たちの性別を越えた愛情として描かれるわけではなく、相手を理解しようと、相手を受け入れようとする事が、とても不自然なことであるという悲しい話だ。
心と体の性別の不一致というものを感じていないハルヒには、ロランスが、心だけじゃなく、見た目女である事を強行する姿に、そもそもの無理を感じた。
彼は教師で、別に教師がスカートをはいちゃいけないとはハルヒ思わないけど、スカートはく必要ある?とは思う。
女の人にだって、パンツルックというファッションはあるのだし、彼が女性としてスカートを選ばないという選択もあるのに。彼は(彼女は)スカートを選ぶ。どうして?本気でハルヒはわからなかった。
生徒達は意外と無関心。でも、年をとった人たちにはやっぱり好奇の的で、フレッドはロランスには言えないストレスに押しつぶされていく。
フレッドだけでなく、ロランスの母親も。たいして付き合いもつながりもない家族だったのに、妻である、母親である、というだけで、無理解を許されない。
主人公ロランスが自分に正直に生きようとすると、彼が愛する「彼を愛してくれている」人たちは、どんどん嘘つきになっていく。ロランスと向き合うと作り笑いになる。
いったん別れて別々の相手と暮らすふたりだけど、自分たちの生活が安定してくると、もう一度冒険を試みる。ロランスはより女性としての自分を手に入れている。だからなのか、スカートははいていない。フレッドはやっぱり男としてのロランスに魅かれている。
…どうしようもない。
結局自分に正直であるってなんなんだろう。自分に正直になれば、ほんとうは性別なんてどうでも良くなるんじゃないだろうか。フレッドも、そしてロランス自身が。
だけど、ふたりにとって、いちばん譲れない部分が男であること、女であること、なのだ。どうしようもないまま映画は終わる。
とてもおもしろい恋愛映画だとおもった。共感されるだけが映画になる価値のある恋愛ってわけじゃない。
でも、これはスペシャルな愛の物語なのだと言う先入観と『わたしはロランス』ってタイトルでなんか迷子になる映画。
ロランスの詩集のタイトルが『彼女たち』で、ハルヒはそっちのがこの映画のタイトルにあってる気がした。

前半のロランスとフレッドのそれぞれの家族の描写、箱の中のような居間に心の通じ合わない家族とテーブルを囲む苦痛が伝わる。家族でありながら、自分の居場所ではないという感覚。そこらへんはすごくよかった。が、ふたりの心がすれ違っていく描写となると、突然、80年代MTV風の軽薄さで、いったい何ごとかと思う。けっきょく、ふたりは自分自身に酔ってるだけなんだろうか。そういうことを表した演出なんだろうか。そこが、若い監督の欲望に忠実なあまりの稚拙さだったら、好感が持てる。89年生まれのグザヴィエ・ドラン。そつがなかったらつまらない。

 
ハルヒマヒネマ
http://blog.livedoor.jp/nuitlog/
最近のハルヒの頭の中、日々をささげる王子様観劇日記
http://bookman.co.jp/serial-novel/boyslife/boyslife/

 
 
 
-ヒビレポ 2013年10月4日号-

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