バイト・サバイバー 第2回

東北での年金データスキャン

 
檀原照和(13号で「雑誌販売員として路上に混じる」執筆)
 
 

 
 
 宮城県の歌津や志津川で働いたことがある。気仙沼からローカル線で40分くらいの距離だったと思う。この一帯は2005年に市町村合併が行われ、「南三陸町」となった海沿いの地域、つまり被災地だ。
僕が働いたのは、東日本大震災の一年半前にあたる2009年の秋。被災前の町の様子を、いまでもありありと思い返すことが出来る。
 ここでの仕事は国民年金の古い紙台帳の電子化業務だった。「電子化」というのは、つまりスキャン作業のことだ。
 2007年5月に国民年金など公的年金保険料の納付記録漏れ問題が発覚し、その数がじつに5,000万件に及ぶというので国民の大きな怒りを買った。これが引き金となったのかどうか定かではないが、役場に保管された日本全国の手書きの年金記録を電子化するという事業が行われ、その末端作業員として僕も働くことになったわけだ。
 期間は10月から翌年1月までの3ヶ月半ほど。会社が請け負ったのは東北全体だったが、僕の任地は宮城県と山形県だった。
 

 

●みちのくの異境性

 最初に行ったのは、山形県の大石田という人口8千人の小さな町。山形新幹線の停車駅を擁してはいるものの、駅から市街地まで果てしなく遠い。……と、ここまで書いて確認のためググってみたら、下車したのは大石田だったが、宿泊したのは隣町の尾花沢だった。そうそう、駅のそばに市境があって、駅を降りていくらもしないうちに尾花沢の市域になってしまうのだった。というわけで、以下尾花沢の話。
 市街地は平屋か二階建ての建物しかなく、広々しており、なんとなくアメリカの田舎町みたいだった。しかし通りには活気がない。見事にない。商店街の裏のダイエーが見事な廃墟になっており、ちょっとびっくりした。
 このダイエーの真ん前に「FROM YOKOHAMA」というヒップホップ系のショップがあった。横浜市民として嬉しくなり、「横浜から来ました。奇遇ですね。なぜここで店を?」と訊いたところ、「初対面の人には言えないこともあるんですよ。人の人生に踏み込んでこないで」みたいなことを言われ、反射的に「逃亡者は北へ逃げる」という火曜サスペンスドラマみたいな言葉が思い浮かんだ。東北の異郷性に直面した最初の瞬間だった。
 東北に来てびっくりしたのは夜の暗さである。これは東北全体に言えることだが、街灯の数がとんでもなく少ないのだ。町中なのに自分の足先が真っ暗で見えない、という経験を、まさか日本でするとは思わなかった(のちに北関東でも経験することになるが)。
 尾花沢は物価も衝撃的だった。
 赴任初日、メンバー間の親睦を深めるため、飲みに行く事になった。そこで町をぶらついていた所「セット料金二千円」という破壊的な価格のキャバクラを発見。「どんな妖怪が出てくるのか」と思っていたら、お水スーツにぱっちりメイク、「寄せて上げて」で気合いの入った若い子がたくさんいてびっくりした。なんでも仕事がないので近隣の町から通っているという事だったが、あの娘たちの時給はいくらだったんだろう?
 この店はなぜか女の子よりボーイさんのほうが目立っていて面白いという、これまた異色の店で……と、いつまでたってもバイトの話に移れないので、この話は切り上げよう。
 仕事の内容は単純だった。朝役所の一室(大抵の場合、会議室)へ来て、一日中紙台帳をスキャン。とにかくスキャン。データが溜まってきたら、チェック担当者がスキャン漏れや極端にまがった画像がないか、ひたすらチェック。チェックに次ぐチェック。これを小さな町では3日くらい、大きな町では10日くらいかけて行い、町から町へ渡り歩いていく。
 電子化作業は5人一組のチームで行なっていた。メンバーはほぼ全員30代で全員男だった。「予算の関係でホテルが相部屋になる可能性を考慮し、女性は取らなかった」ということだが、勤務期間中ずっと個室をあてがわれた。
 もうとにかく単純な作業で、ひたすら数をこなすだけ。来る日も来る日もこの作業というのはしんどかったが、うちのチームはリーダー役の社員が「スーツを着たフリーター」みたいな人で、ゆるーい雰囲気を醸しだしており、のんびり作業をつづけることができた。
 このフリーター然とした感じは、うちのチーム全体のカラーだった。自分も含めた話だが、同僚たちはどいつもこいつもいかにもフリーター然としており、作業現場である役場の職員と好対照をなしていた。正直な話、自分たちは完全な異物だったと思う。しかし職員と顔を合わせるのは出勤時と退勤時だけだったし、ずっと会議室に篭っていたのでおかしな目で見られることはなかった。
 勤務時間はたしか9時〜18時で、毎日ほぼ定時に終わっていた。むずかしくないかわりに刺激も少ない仕事で、楽しみといったら台帳に書かれた面白い名前を探すことくらいだった。時間が経ってしまったので、名前のことはみんな忘れてしまったが、ただひとつ、宮城につや子(艶子)という「なまめかしい」名前の老女が多かったことだけは印象に残っている。「艶子」っていう名前、やらしくないですか? 「色っぽい子」ですよ?
 そうそうここまで書いていて思い出したのが、東北人の馴れ馴れしさである。関西人の馴れ馴れしさは話題になることが多いが、東北の人もかなり馴れ馴れしい。関西人のように物理的に体を寄せてきたりはしないが、顔なじみになると突然身内として扱われてしまうのだ。
 例えば役所の人から「どこに泊まっているの?」と訊かれ、コミュニケーションを取るための世話場(せわばなし)なのかと思っていた所、「ところで、うちの従兄弟が旅館をやっているんだけど、温泉も近いしいいところなんですよ。移って来ませんか」と言われて唖然としたり。芋煮会(東北の秋の行事で、河川敷にグループで集まり、サトイモの鍋料理などを作って食べる)に誘われたり。車で刺身の旨い店のランチに連れて行ってもらったこともある。宮城県の北西部のあるビジネス旅館は、コンクリート打ちっ放しのモダンな建物なのに、サービスがまるっきり民宿みたいだった。「カレーライス作ったんですけど、食べますか?」と無料でふるまってくれるなど、およそビジネスホテルらしくない温かみのあるサービスを提供していた。
 

●記録主のいなくなったデータ

 この仕事で記憶に残っているのは東北各地の風物のことばかりで、仕事そのもののことはそれほど印象に残っていない。
 仕事帰りの志津川(南三陸)の駅のホームの底冷え、気仙沼でりんごほっぺに大根足の女子高生が三人並んでいたこと、銀山温泉で食べたずんだ(枝豆でつくったあんこ)の団子、東北エリアと東京の情報以外ほとんど載っていない「河北新報」、記録台帳で自分と同じ「檀原」という土地をみつけ実際に行ってみたこと、天童から山形有数の観光地・山寺までタクシーに乗ったら頼んでいないのに果物狩りの路面店に立ち寄られ、何か買わないと先に進んでくれない空気に追いやられたこと、郊外のスーパーに相撲巡業の巨大な立て看板がズラリと並んでいたこと、などなど。
 山形は温泉が多く、食材も安くて豊富。とくに肉と野菜は絶品で、スーパーで売られている食材でさえ、関東ではお目にかかれないほどおいしかった。そこで僕らは自室に鍋を持ち込み、連日鍋パーティーで楽しんでいた。休日は温泉巡りを満喫するなど、半分バカンスのような仕事だった。
 宿泊先で読んだ元祖和食フレンチの名店「ル・ポットフー」のオーナー、佐藤久一の伝記『世界一の映画館と日本一のフランス料理を山形県酒田につくった男はなぜ忘れ去られたのか』(岡田芳男・著 講談社・刊)を読んで、どうしても「ル・ポットフー」に行きたくなり、酒田まで足を運んだことも懐かしく思い出される。
 そうした数々の記憶のヒトコマとして、気仙沼や南三陸の情景も浮かんでくる。
 僕のお気に入りは南三陸の志津川だったが、この町の役所は川の脇に建っていた。昼休み中、冬の光を反射した川面を見ながら散策するのは至福だった。
 市街地は歩いてひとめぐり出来るくらいの大きさで、町の中央を流れる川に沿って歩くと桟橋に行き着いた。港町らしく、平屋の建物が多い。左岸に沿っていくと海産物の荷上場があり、漁船が係留されている。海の匂いと相まって完璧な絵画のようだった。
 町の目玉は海産物で、スーパーの魚介売り場を覗くと魚介類がまるごとそのまま売られている。海鮮丼を食べさせる味自慢の店も目についたが、どこに入っても旨かった。
 志津川は、「たぶんフランス人だったらこういうところにバカンスに来るだろう」と思わせるしずかな漁師町だった。
 気仙沼には曰く言い難い場所があった。町で見かける喫茶店が、揃いも揃って時代遅れなのだ。煮染めたような佇まいの喫茶店に入るのは、ためらわれた。まるで昭和50年代のまま時計の針が止まっているかのように見えた。
 そうしたなかにあって、観光桟橋からしばらく歩いた場所にある「シャークセンター」の裏手の店は、貴重な存在だった。蔵を改装して赤く塗り上げたその店は「アンカー・カフェ」という名前のシアトル・カフェだ。この店だけが、気仙沼のなかで同時代性を感じさせてくれる場所だった。寒さの厳しい北国らしく、シアトル・カフェなのに、「気仙沼クラムチャウダー」なるメニューも用意されていた。
 週2回ほど、駅前のビジネスホテルから1キロ以上歩いて、市内唯一の銭湯のコインランドリーをつかっていた。この銭湯も港のそばだった。
 アンカー・カフェに行くときも、銭湯にいくときも、ぬけるような空気の軽さに海べりの町にいることを実感した。
 311のあの日、海があふれてなじみの場所はあらかた押し流されてしまった。
 半年経って、ようやく気仙沼を再訪したが、観光桟橋は沈んだままだった。「アンカー・カフェ」は流されずに同じ場所に建っていたものの、なかはヘドロまみれで什器類は散乱したままだった。2階の床は大きく波打ち、震災時のままうち捨てられていた。店の周辺には海水を湛えた池があちらこちら口を開けており、潮の匂いと魚の死骸の匂いが混じった津波の匂いがした。その匂いに惹きつけられたかのようにたくさんの蠅とカラスが舞っている。店の人たちはどうなったのだろうか。
 銭湯に向かって歩いて行くと、櫛の目が抜けたように住居が流された空き地が目についたものの、銭湯自体は無事営業していた。なんでも関西の人たちが店の存続を支援してくれたお陰だという。
 あちこち歩きまわりながら聞き込んでいくうちに、「アンカー・カフェ」は山向こうの地区で仮設店舗を構えていることが分かった。
 一方、志津川には行くことが出来なかった。線路も駅舎も流されてしまい、鉄道そのものが失われてしまったからだ。バス路線が新設されてはいたが極端に本数が少なく、朝行ったら夕方まで瓦礫のただ中にいなければならない状況だったので諦めた。
 ただ町の惨状は YouTube に上がっている車載カメラの記録映像で確認することが出来た。町は一面の瓦礫だった。お世話になったあの役所の建物も津波にもまれ、鉄骨だけのスケルトン状態になっていた。
 津波で町は流されたが、僕たちが電子化した年金記録の方は、遠く離れた都会で稼働するサーバに残されているはずだ。しかし記録の主はどうなったのだろうか。一体どれほどの人が生き残ったのだろう。
 

 
 
 
-ヒビレポ 2013年10月14日号-

Share on Facebook