ハルヒマヒネマ 4−4

2013年映画の旅

 
やまだないと(「料理入門」連載中)
 
 
 
 
 

お気づきかもしれないが、最近ハルヒは、映画館で映画を観ている。映画を観にいっている。観にいった映画の体験記。
映画を観ながらハルヒの頭の中はあの頃この頃行ったり来たりで、それって心ここにあらずとも言うのかな。
あの〜、本文がめちゃくちゃ長いので、前置きこんだけ。
 
 
 
『弥勒』2013 日本
D/W:林海象 A:永瀬正敏/土村芳/佐野史郎
 
ハルヒのよーなタイプは、たぶん林海象の映画とか好きそうに思われてそうだけれど、どうもあんまり好きじゃない。映画『私立探偵濱マイク』とか、それほど好きじゃないのだった。いや、入り口は好きなのだけど、中にはいると好きが続かないのだ。
林海象の映画がというより、ハルヒはもともと、アングラな世界観をどっぷりと愛す趣味人的な感覚と相性が悪い。昔から。嫌いじゃないけど相性が悪い。
というか、好きなのだ。ハルヒが学生の時に撮った8mm映画なんて、わざと白黒で、友達の目のまわりを黒くぬって、誰だったかの詩の朗読させるとか、紙で作ったロケットを飛ばすとか、マントを着た火星人の男とか、鉄腕アトムとかなんかそういうのだったんだもん。結局、自分の中にあるそういうところが、ハルヒにとっては嘘くさくて好きじゃ無かったんで、それをみせられるのがいやなんだろうな。
林監督の『夢見るように眠りたい』を見たのは東京でもう漫画家をやってる頃だったけれど、だから、すでに、なんかもう、そういうのがちょっと、苦手だってことになっていた、ハルヒの中で。ハルヒの大の友達が、そういうのを好きだったんで、それがまた面白くなくて、ハルヒはそういうアングラジャポネスクから、小麦色の裸に白いソックスの女の子、男の子の世界を構築しはじめた。みたいな思い出を、林監督の『弥勒』という映画を観ながら、そうずっと、その友達のことを思い出していた。一緒にみてるような気がした。そりゃあ君は好きだろうさ。好きだろうともさ。
その友達は一足先にあの世にいるので、映画でもお芝居でも、ただで好きなだけみてるいいご身分だ。
 

 

『弥勒』は、映画としての感想と、映画体験としての感想が、ハルヒの中で矛盾する感じがある。
まず映画体験の話。この映画は、林監督が映画の先生をやってるらしい京都の大学の(ざっくり)映画を学ぶ学生達と、プロの映画人が劇場公開映画を作るという企画で生まれた映画の中の1作で、この映画の為に、学生や卒業生で、配給・宣伝を行う「ミロク革命社」というチームも編成されている。で、通常の劇場映画版と、劇判の入っていない生演奏版があって、今年6月から日本各地で俳優や楽隊と一緒に上映をしていた。ハルヒが観たのは、東京出迎えた千秋楽上映だった。つまり、たぶんこれから映画館でかかる『弥勒』と、ハルヒが観た『弥勒』は少し、というかだいぶ違うんじゃないかと思う。そしてハルヒは、映画を観たというより、体験したと感じているのだ。
鬼子母神の境内に張られた唐十郎の唐組紅テント2日間が東京の劇場だった。
副都心線の雑司ヶ谷で降りて、都電の鬼子母神駅の方に渡って、ハルヒは、ここの辺り、とある用事でしょっちゅうあるってるんだけど、鬼子母神神社に実際行くのは初めて。薄暗い住宅街の奥に神社の玉垣が見えてきて、汚れた赤いテントの裏っ側が見えた。アングラを避(よ)ける傾向にあったハルヒだから、紅テントもはじめてだし、ましてや中にはいるのも。ここまでですでにだいぶ体験している。寒かったんであったかいお茶を買っていったら、境内で、ミロクの人なのか唐組の人なのかが小さな屋台を出して「温かいカフェオレ100円でーす。ドトールのカフェオレでーす」と、ペットボトルを売っていて、なんかそっちで暖をとれば良かったと思った。せっかくだし。
林監督は、それこそ、天井桟敷に参加してたり、唐十郎の映画を撮っていたりと、趣味人もなにも、血流がアングラな人なんだろう。紅テントでの上映はとても感慨深いものらしかった。なんせ、休演日とはいえ、唐十郎のお芝居以外上演しないテントで別の作家の作品を「上演」するのだから、と。
まず監督が、昔のように、映画を持っていろんなところに観せに行きたいと思った。映画ってとっても楽しいものなんだと思い出して欲しい、みたいなことを言っていた。言われてみれば、こういう即席のスクリーンで映画をみる経験は、学校の映画の日くらいなもんだったかもしれない。映画がやってきた、という感じが、とてもする。
映画が始まるかと思えば、そろいの帽子とツイードの半ズボンスーツに、きりっとネクタイをして、ハイソックスに革靴の鳩山郁子の漫画のような男の子たちが、おーいおーいと呼びかけあいながらスクリーンの前に現れた。男の子たちは女の子たちで、この映画の出演者。ちょっとした前説のあと、紅テントの舞台に立ったからには、あこがれの、と、何やら唐十郎の戯曲の一節をやりはじめて、それがへたくそな中学演劇部みたいだったんだけど、愛嬌。
映画はその男の子たちが、水面を覗き込むところから始まる。実際舞台で観た時は鼻についたが、映画で観ると、不思議と男の子である事に違和感の無い子たちだった。あとで知ったが、彼女達もまた、大学の俳優科の学生らしい。だから、芝居になれない感じがよかったのかもしれないし、モノクロの画面の肌や目玉がとてもきれいだった。
舞台一面に張られたスクリーン、お客はゴザ桟敷で座布団にすわってみる映画。両脇に7人くらいの管弦楽団がいて生演奏をしている。この雰囲気で観る、稲垣足穂の世界(少年とか飛行機とか土星とか)と、映画創世の(月にロケットが突き刺さる系の)世界、好きな人は好きだと思う。好きな人しか来ていないと思う。そんな中で観ると、ハルヒもなんかわりと好きだなと思ってくる。いや、だから、好きなのだ。こういうの。でも、どうかなあ。
ここからは映画の感想。上演前の子犬のような男の子たちである女の子たちや、楽団のライブ演奏が無いこの映画は、はたして面白いんだろうか。
女の子たちが演じる、いや、女の子ではなくて、少女たちが演じる少年は、主人公ナガセマサトシの少年時代で、本物の学帽ガクランの少年も出てくるが、良い仕立てのツイードの半ズボンの、もったいぶった古い日本語で、宇宙やほんとうのおかあさんを語る「少年」は、少女でなければ演じられないような気もした。その、映画の中の演劇的な演出は以外と悪くないとハルヒは思った。けど、あまりに安っぽいなあ、さすが学生映画、なんて思っていたら、ナガセマサトシになってからは、がらりと、プロの映画になる。
さて、映画体験としてはほんとうにとても面白かったが、映画館でこれをハルヒが見て楽しめるのかなあ。なんか、観る楽しみより、撮る楽しみ、幸福に溢れてる映画だと思った。

帰り際、足元をとられるので、よく見たら、ゴザの下、テントの中は古い樹のねっこがみっしリとはびこっていた。それを見て、ハルヒは、週末、唐組の芝居を見に、もっかいこようと思った。
 
 
 
『天国の門』 1980 アメリカ
D/W:マイケル・チミノ A:クリス・クリストファーソン/イザベル・ユペール/クリストファー・ウォーケン
 
これはほんとうに「映画体験」だ。貧乏な映画も好きだが(貧乏くさいのは嫌い)これは映画会社を一個つぶすくらいの膨大な制作費と失敗の映画。もとは5時間越えの大作が、216分に編集され、さらに公開用に140何分にカットされたが、 映画の再評価で後に216分のオリジナル版として再公開されたものを、 デジタルなんとかで、すでにネガもなくなっていた部分も三原色のカラーネガからおこして、細かい修復を重ねて監督自身の監修のもと映像や音声を復元した… と言われても、ハルヒはその公開版、短い版のことを、まったく覚えていなかった。
ハルヒがこの映画を映画館で観たのは、たぶん高校生になって二番館にかかった時じゃなかったろうか。もしかしたらビデオかもしれない。覚えていたのは、イザベル・ユペールとクリスト ファー・ウォーケンのとあるシーンだけで、それ以外、たしか黒人も、インディアンも、カウボーイも出てこなかった、その世界でどんな争いが起こっているの かなんて、今回映画をみるまでわからなかった。
時代は19世紀末、西部開拓時代後期のアメリカワイオミングでおこった「ジョンソン郡戦争」が背景に描かれていた。それが、いったいなんの戦争かという と、先住移民の牧場主達が新しい移民達が調子にのりすぎてるから家畜泥棒ってことで37564にしてしまえという(ざっくり)住民による住民の虐殺。
ハルヒが高校生の時は、好きなシーンがあれば映画の中の史実なんてわかんないならわかんないまま気にもしなかったが、今は映画がおわればiPhoneですぐにいろいろ調べることができる。
この映画の3人の男女。(ハルヒはまずトライアングル映画としてこの映画が好きなんだと思う)ジム・エイブリルも恋人エラ・ワトソンも用心棒ネイト・チャ ンピオンも、実在しているところが面白いが、ハルヒは、この映画、史実を描いた映画ではないと思ったし、3人は、名前こそ受け継いでいるが実際の人物とは 違う。実在の3人とも、見せしめのように殺されていて(エイブリルとエラは夫婦)なんとなく、鎮魂の意味もあるのかと思った。でも、それも、映画を観たあとに知り、思った事だ。
高校生のとき、ハルヒはクリストファー・ウォーケンのファンで、『グリニッチ・ヴィレッジの青春』の彼に恋に落ち、『ディア・ハンター』で打ちのめさた。 (その後この映画は簡単には見れない。辛すぎて。観たらしばらく起き上がれない)『天国の門』は、当時のハルヒにはウォーケンの映画のはずだった。なぜなら、メインビジュアルが燃え盛る炎を背に仁王立ちの大男ウォーケンだったから。だいたい、主演がクリス・クリストファーソンで、2番手にクリストファー・ ウォーケンで、クリスだらけでややこしかった。
クリス・クリストファーソンはハーバード卒のインテリで家柄もよく、正義感溢れる保安官エイブリル。冒頭そのハーバード大の卒業パレードの列に遅刻して滑り込むエイブリルから始まって、輝かしく麗しい、伝統のハーバードの卒業式典の様子が30分くらい描かれるのだが、エイブリルの親友、チャーミングでいた ずらで誰からも愛され卒業生の代表で挨拶をまかされるジョン・ハート演じるアーヴァイン、彼にハルヒはこの映画のすべてがある気がした。それは昔観たときにはまったく感じなかった事だった。「水は高いところから低いところに流れる。伝統を覆そうなんて無駄な事はしない。」「人生はおおむね上出来だ!」そん な煙に撒くような飄々とした挨拶。この、卒業式のシーンはほんとうに「天国」のようだ。ふたりとも老けメイクならぬ若メイクで20年若返っているのだが、若き日の幸福に満ちている。ダンスもあれば、殴り合いひしめきあい、卒業の時を謳歌する男たち。それを見守る、将来の良き妻候補の良家の娘達。男たちが肩 を抱き円陣を組む中、それまで誰よりも騒がしかったアーヴァインはひとりぼう然とその光景から冷めて行く。「何もかも終わった」
エイブリルとアーヴァインが再開するのが20年後のワイオミング。アーヴァインは、牧場主達の協会側で疑問を抱き皮肉を挟みつつも、卒業の挨拶通り、摩擦 の無い生き方をしている。虐殺リストに載った移民達と立ち上がったエイブリルたちとの銃撃戦でも、彼は銃もとらず抵抗もしない。流れ弾に当たって当然のよ うに命を落とすが、ハルヒはまさにそんな生き方をしているなあと思った。
エイブリルがこの地で恋人としているのが、移民で小さな牧場を娼婦仲間と営むエラ。イザベル・ユペールは、『バルスーズ』の裸も惜しみないフランス人 女優。エイブリルは彼女に何でもあげられる。でも、一番のものはたぶんあげられない。彼の部屋には若き日の彼と恋人の写真がある。そんなエラを愛している もうひとりが移民でありながら今は牧場主に雇われ家畜泥棒の移民を殺す殺し屋チャンピオン。もう、クリストファー・ウォーケンのチャンピオンがスクリーン に現れただけで、ハルヒは涙が止まらない。「美しすぎて!!」この時代のウォーケンを、スクリーンで観れる感動!
ウォーケンという人がそもそもうつくしいのだが、ネイト・チャンピオンという人物が美しい!!その人生が美しい。
彼は学もなく、貧しく、粗野な育ち。エラのこれまでの人生を共有できる男。彼にもエラにも、エイブリルやアーヴァインのようなかがやかし天国の記憶は無い。彼はなんとか上にはいあがろうとしている。金持ちに雇われて賞金を稼いで、いつかはエイブリルのような知性や財力を持った男になりたいと思っている。敵対していながら、エイブリルと旧知の友人(このへん実は3人の関係がハルヒよくわから無くて、想像)である事を誇りにも思っている。
エラの部屋で彼は書き取りの勉強をしていたりするのだが、それが彼の最後に繋がっていたりする。
ハルヒがずっと忘れられなかったのは、チャンピオンがエラを自分の小屋に招待するシーン。彼は剥き出しの丸太壁に壁紙を貼った事をうれしそうに自慢するのだが、それが新聞紙なのだ。それが彼の上流で文化だった。今も昔もハルヒはこのシーンで泣く。
それを見た、エラは素敵だと、笑顔をみせてくれる。「死んだ魚の目」と言われる裏切り者で殺人者、大男のチャンピオン。そのじぶんの暮らしをみせたあと、エイブリルの元に戻るエラを彼は、もうあえないのかなと笑顔で見送る。手を振る。
牧場主達が、チャンピオンでさえ疎ましく思い、銃撃隊の軍を率いて小屋をとりかこみ、銃弾の嵐の中、炎に包まれ、焼け落ちる壁の新聞紙、チャンピオンは手 帖にエラとエイブリルへのメッセージをたどたどしい文字で書き残す。(実在のチャンピオンが銃撃戦の中、書き残した細かなメモが「ジョンソン郡戦争」の重要な資料になっているのらしい。)
燃え盛る炎を背に「立ち往生」のクリストファー・ウォーケンのビジュアルは、チャンピオンの最後の時だったのだ。
昔、クリス・クリストファーソンが主役なのに、まったくハルヒにどってこともこなかったのは、このチャンピオンの、クリストファー・ウォーケンの人生がこのように美しすぎたからだろう。こうして文字を打ちながら、彼の人生を思い浮かべるだけで、ハルヒは涙がに人でしまう。
主人公エイブリルは誰にも寄り添わない。でも、なんかその寄り添えなさに、今のハルヒは少し同情できる気もする。寄り添わないのではなくて、寄り添えないのだ。エマはチャンピオンの死後、銃を持ち、移民達の先頭に立って馬を走らせ討伐隊に挑んでいく。もう、エイブリルの事は見えなくなっていたかもしれない。エイブリルは孤独な人だ。誰よりも。

この映画はとても不思議なラストシーンを持っているのだけれど、これもハルヒ覚えがなかった。公開版は違ったんじゃないだろうか。今それをDVDなんかで観れるのかな。
「天国の門」は開いているのに、そこをくぐれなかった人たち。手を伸ばした相手の手も掴めなかった。エイブリルのむなしさを感じればいいのか。あのラスト・シーンの解釈はゆっくりやりたい。そして舟はいく。

「Heaven’s Gate」というのは、移民達が集う娯楽場の名前だった。
そこで、妙に抜かれる青年に見覚えがあったのだが、昔観た時は気づいていなかったけど『カッコーの巣の上で』の自殺してしまう青年だ。ずっとセリフの無いまま、もの言いたげな表情だけで映っていて、クライマックスに向けてとても大事な役となるんだけど、名前思い出せなかったから、終わって iPhoneで調べた。ブラッド・ドゥーリフ!そうそう。好きだったんだよな。
 
 
 
 
ハルヒマヒネマ
http://blog.livedoor.jp/nuitlog/
最近のハルヒの頭の中、日々をささげる王子様観劇日記
http://bookman.co.jp/serial-novel/boyslife/boyslife/

 
 
 
-ヒビレポ 2013年10月25日号-

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