ハルヒマヒネマ 4−5

呼吸する動力 アレックスとオスカー

 
やまだないと(「料理入門」連載中)
 
 
 
 
 
レオス・カラックスという名前は、本名のアナグラムになっていて、カラックスの中にはアレックスとオスカーがいる。
その自分の名前を持った主人公アレックスが恋をし、死んでゆく映画、『ボーイ・ミーツ・ガール』と『汚れた血』をみた時、ドニ・ラヴァンとカラックスというふたりの男の子の関係を、うらやましく思った。
ハルヒは、ハルヒをみることはできない。会うことはできない。(あれ?何週か前にも同じような事で書き出した気がする)
何かに自分を映した時、初めてハルヒは自分の姿をみることができるのだが、たぶんそういう意味ではなく、ドニ・ラヴァンは、レオス・カラックスが出遇った自分なのだろう。
ハルヒがそれらの映画を観た時(ビデオだ)ちょうどその映画を撮っている頃のふたりくらいの年齢だった。ハルヒはまだ、漫画家ではなかった(正確には、「自分のことをそうだとおもってなかった」)が、『汚れた血』をなんどもなんども(ビデオだから)みながら、ハルヒには「描く世界がある」、気がして、漫画家になった。
3本めのアレックスの映画『ポン・ヌフの恋人』を見たあと、はじめてパリに行った。真っ先に行きたかったのは当然、ポン・ヌフ(橋)であり、アンリ4世の騎馬像を見上げ、石の欄干の半円のベンチに座り、SAMARITAINEとCONFORAMAを眺め、足元をくぐり抜けて行く観光遊覧船を見送った。その時、一緒にいた友達は、映画をみていなかったから、ただ黙ってハルヒは、ほんの数分、そうしていただけで、誰にみられていたわけでもない。
その数年後、ハルヒはこのポン・ヌフをSAMARITAINEの対岸に渡ったところに半年暮らすことになる…って話で、そういえばはじめたんだった。今期のヒビレポ金曜日のお当番は。
 
 

 

『ホーリー・モーターズ』 2012 フランス
D/W:レオス・カラックス A:ドニ・ラヴァン/エディット・スコブ/カイリー・ミノーグ

この映画で、ドニ・ラヴァンが演じる主人公の名前はオスカー。彼もまた、カラックスの名前をもっている。
冒頭、映画の気配がして、ベッドからパジャマ姿で起き上がるのはレオス・カラックス本人。窓の外は夜で、発光体がゆっくり降りてくるのが見える。飛行場だろうか。壁紙は深い森。カラックスはそこに鍵穴を見つけ、あらかじめ鍵のように変形した自分の指を差し込み鍵穴を回す。隠されていた扉が開く。暗闇の中をすすむカラックスにいつも一緒の小さな愛犬も従う。
カラックスの寝室は映画館の2階席に繋がっていて、カラックスは、息を殺し映画に見入る満員の観客の頭越しに光るスクリーンを見つめる。
鳥の声がする。丸い窓は海を行く船室のよう。その奥から、カラックスを見つめているのか、女の子がじーっとこっちをみている。
これは、映画だけれど、もしかしたらハルヒの夢の導入部だ。だいたい夢っていうのは、みはじめた時は、ずっとその状況にいたような錯覚から入る。なぜそこにいるのか、なんの矛盾もなく。
ハルヒは映画館で映画をみているような気になっている。けど、眠っているのかもしれない。
ドニ・ラヴァンはまず、おどろくほど、一般的に老けた、頬のたるんだ白髪の立派な紳士として豪邸から子供たちの声に送られてこちらに向かって歩いてくる。が、彼が乗り込むのは、SPが出迎える黒塗りの車ではなく、そのずっと先に停まって彼を待っている、白いリムジンの長い車体。そこで彼は運転手の女性、セリーヌによって、オスカーと呼ばれる。
奇妙な話だ。白いリムジンは、パリの街を走り回っている。オスカーと呼ばれた男が、変装を解くと現れるのは、ハルヒが大好きな、よく知っている、ざくざくと肉をそぎ落としたあばた顔の、しかめっ面でギョロ目のドニ・ラヴァンなのだが、つまりその状態が主人公オスカー。オスカーは、そのリムジンの中で、その日のいくつかのアポをこなしていく。俳優なのだろうか。リムジンの中は劇場の楽屋のように、あらゆる衣装や小道具が詰め込まれ、鏡前で彼は指示にある人物に変身し、その人物を演じる。それは、趣味ではなく、彼の仕事で、その世界には、そういう仕事をしている人がこっそり存在し、誰かのある一瞬だけを演じて、そこに「シーン」をのこしているらしい。
それは、その日の夢の世界に、ハルヒが突如存在し、目覚めるとともにかき消えるように。
オスカーはその日、見た目も年齢も暮らしも違う11人もの人物を忙しく演じていく。
アレクサンドル橋にいつもいる、が、誰も目を留めない物乞いのばあさんだったり、モーションキャプチャーのスタント役者だったり、パーティに行った年頃の娘を迎えに行く父子家庭のパパだったり、殺したり殺されたり、看取られて長い人生を終えたり。
ところどころ、カラックスの今までの映画の、どこかのシーンに繋がっていそうなセリフやシチュエーションがある。たとえば、オスカーは、緑色のヴェルヴェットの服に火のような赤毛頭の怪人メルドに変身すると、マンホールのふたをあけ(あの重たいふたを開ける道具をメルドは持っているんだよ)下水道に潜り込み、ぺール・ラシェーズ墓地のマンホールから突如出現し、観光客を脅かす。美女を連れ去る。メルドは煙草を吸い、花を食べる怪人。それは2007年に日本で撮影されたオムニバス映画『Tokyo!』の中のカラックスの短編『メルド』そのもので、東京の下水道とパリの下水道は繋がっているのだろうか。いや、だからたぶん、そういうことなんだろう。「シーン」は、時間や距離を経る事なく、突如としてそこに現れるものなのだ。
その前後は存在しない。存在しないが、「シーン」があるという事は、存在しているという事なのだ。とハルヒは思うのだった。
なぜなら、ハルヒの人生を、生まれた時から今まで、繋がっているなんて証明できるものは無い。そんなフィルムは残っていないのだし、そんな記憶装置は存在しないのだし。
頭の中に、浮かぶのは、いつも「シーン」だ。断片だ。
今、頭に思い浮かぶ映像より、夢のほうがもっと鮮明だと思うが、そのシーンはハルヒがみているものでありながら、ハルヒがみられているものでもあるじゃないか。
一体、ハルヒは今まで誰にみられていたのか。
こうもいえる。誰にもみられていないはずの自分が存在しているのはなぜか。
途中、リムジンの中にひとりの男が現れる。
彼との会話でカメラの話が出てくる。今はもう、カメラなんて自分の頭よりも小さくて、どこにあるのかもわからない。
ハルヒは気づいていないだけで、今、まさに、カメラがハルヒをとらえているところかもしれない。
または、ハルヒの記憶に残る断片は、オスカーのような仕事の人が演じた「シーン」なのかもしれない。
まあ、こういう、かもしれないあそびは、映画をみている時に考えている事ではなく、見終わったあとに、いかにも自分がみた出来事が、なんらかを比喩する深い意味をもっているかのように、それをハルヒが感じ取ったかのようにこねくり回して遊ぶ遊びであって、実際、ハルヒはこの映画、とても柔らかくチャーミングな映画だと楽しんでみていた。
その1日の最後の仕事、リムジンはオスカーを次の朝を迎える家族の家に送り届ける。そこは、オープンセットなのか、ほんとうにそんな町並みがあるのか。紙箱のような白い同じ家がコピーペーストで繰り返し並んでいる住宅街で、家で待つ、オスカーの家族は…。
次の朝、オスカーは、地球外にいるのかもしれないし、人類の歴史さえはじめなおすのかもしれないし。
こういうふうに、人生の断片を唐突に演じ、「シーン」を残していく仕事がある世界なんだという事は、最後の仕事の前にオスカーのリムジンがもう一台のリムジンと接触事故を起こすところで証明される。
そのリムジンには、オスカーと同じ仕事の女優が乗っている。そして彼女は、20年ぶりにあう、オスカーの昔の恋人ジーンなのだった。
二人が出会う場所は、今は廃墟となったポン・ヌフの右岸のたもとに立つSAMARITAINE、サマリテーヌ・デパート。
運転手同士が口論している間に、ふたりはリムジンを抜け出し、デパートの中を懐かしく歩く。
オスカーはジーンを軽々と横抱きにして、残骸の転がるデパートの中をあるく。ジーンを演じているのはカイリー・ミノーグだけど、それは『汚れた血』で、熱帯夜に解けたアスファルトの上を歩くアレックスとアンナであり、ドニ・ラヴァンとジュリエット・ビノシュであり、ビノシュとカラックスであり、『ポン・ヌフの恋人』へと続く3人の友情と恋だ。『ポン・ヌフの恋人』の中のサマリテーヌは、パリではない田舎の村に作られたハリボテ、ハルヒが初めてのパリで見上げたサマリテーヌはほんものだけど、にせものだった。
そして、今、サマリテーヌは時が停まり、オスカーとジーンが歩くそのデパートは映画のために解放された本物のサマリテーヌの亡骸なのだった。
複雑に入り組んだ階段も、吹き抜けの売り場も、屋上も、ハルヒが触って歩いた記憶のある場所で、ああ、ほんとうに死んでしまったんだなあ、あの美しいデパートは。
オスカーは仕事でたくさんの人生を生きているが、こうしてオスカー自身のほんとうの時間も流れていた。
だから、その夜が、次の朝のためのものなのか、それが彼の人生のほんとうの目覚めぬ夜になるのか、毎日彼にはわからないのだろうと思う。
リムジンもまた仕事を終えると「HOLY MOT RS」(MOTORS のOがきえているのだ。これもなにかいたずらが隠されているのかもしれないけど、いたずらの答えはハルヒ知らない。MOTはLe Mot、言葉のことかもしれない)と緑色にネオンサインのかがやく大きなガレージへ戻ってくる。
そこにたくさんのリムジンが吸い込まれていく。
運転手達も自分の家に帰る。静まり返ったガレージで、リムジン達がひそひそとおしゃべりをはじめる。
子供向けのマンガ映画のように、この世界の機械はすうすうと呼吸している。とても柔らかくあたたかい。
これは、そういう世界。カラックスはSFだと言っているから、たぶんハルヒがみたことは、すべてその世界で起こっている事なんだろう。
夢でみたことを疑う人はいない。夢診断はたいていはずれている。

さて、映画の最後に一瞬女性の写真が挿入された。
それは、カラックスのパートナーで『ポーラX』でギョーム・ドパルデューの「姉」を演じたカテリーナ・ゴルベワだった。ハルヒは知らなかったのだが、亡くなっていたのだ。ギョームももういない。
冒頭の窓の中の女の子はゴルベワの娘らしい。
映画にはいろいろのものがとじこめられている。

さて、ハルヒが思う俳優というのはオスカー・ワイルドの童話『幸福な王子』のつばめをなぞらせる。
銅像の王子のからだは、どこへも行けない。でも、その目には、たくさんの人生がみえる。つばめは冬が来る前にあたたかい国にたびだたなくてはならないのだけど、一晩足元に寝かせてもらった恩義で王子の使いで貧しい親子に王子の飾りの宝石を届ける。
「つばめくん、もうひとばんだけ、ここにとまって、わたしのおつかいをしてくれないか」「もうひとばんだけ」「もうひとばんだけ」
つばめは、両目の宝石まで貧しい人にあげてしまって、何もみる事のできなくなった王子の為に、自分が観てきたもの、今見えるものを耳元で語り続ける。
そして次の地へ旅立つ時期をうしなったまま冬がきて、王子の足元で息絶える。
アポを受けて休む間もなく、仕事をはたすオスカーは、そのつばめのようにハルヒには思えた。アポを送っていたのは、カラックスかもしれない。観客かもしれない。
様々な人生を演じるオスカーは夜にむかって疲労していく。
カラックスとドニ・ラヴァン。監督と俳優の関係もそうなのかもしれない。とおもったが、おもしろかったのは、カラックスのインタビュー。
「私は実人生では、ドニ・ラヴァンの事をまったく知りません。友人ではありません。30年前か仕事を共にしてきましたが、一度しか夕食を共にしたことはありません」

ドニ・ラヴァンは決してカラックスの変わりに人生を生きているのではなく、カラックスはどこにもいけないのではなく、彼らはどこにだって、どこまでだって地上を走っていける。
空は飛べないだろうが。
 
 
 
 
ハルヒマヒネマ
http://blog.livedoor.jp/nuitlog/
最近のハルヒの頭の中、日々をささげる王子様観劇日記
http://bookman.co.jp/serial-novel/boyslife/boyslife/

 
 
 
-ヒビレポ 2013年11月1日号-

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