ハルヒマヒネマ 4−6

世界を縮小していく方向で

 
やまだないと(「料理入門」連載中)
 
 
 
 
 
深夜に、エネッチケーオンデマンドの特選ライブラリーをうろついてる。ハルヒはめんどくさくてテレビを見なくなってしまったので、ここは大変便利である。エネッチケーの番組しかもちろんないわけだけど、今、ハルヒには、「たくさん」の中から、きらりと自分に必要なものを選ぶと言う利口さがないので、「こんだけ」の中からぼけーっととりあえず、おもしろそうなもの、をみるのがちょうどいい。
ドラマの項目には、こないだ友達が話してたのから、70年代のずいぶんなつかしいのもあって、今はちょっとずつ市川森一の『黄金の日々』をみている。
(昔のドラマの男性俳優はなんであんなに真っ黒なんだろう。女優さんがまっしろなんで、よけい真っ黒。目玉と前歯の白さだけがぎらぎらしてる)
古いドラマやバラエティ番組は、エネッチケーだけでなくても他所の放送局のサービスと契約すればもっとみれるわけだけど、今は「こんだけ」で。
昔、おばあちゃんちに行くと、テレビはエネッチケーしかついてなくて、他のチャンネルにしても、いつの間にかエネッチケーだった、あのわけがなんとなくわかる。エネッチケーが自分にとって特別おもしろいからとか、そういうのじゃなく、他にもチャンネルがあるんだってことを気に留めるのがもう、めんどうなんだな。だいたいどのテレビ局も、その一局の朝から晩まで(ループ)のなかに、世界が一個ある。マルチであっちの世界もこっちの世界もと、パラレルに楽しむ万能な感覚は、年をとると保てなくなるんだろう。
ハルヒはとりあえず、エネッチケーオンデマンドで追える程度に世界をちいさくしていこう。
ポータブル世界。
あーハルヒ(5歳)おとなにあったら『世界ふれあい街歩き』のナレーターになりたい。
 

 

 
『BOY A』2007 イギリス
D: ジョン・クローリー W: マーク・オロウ A: アンドリュー・ガーフィールド /ピーター・ミュラン

「BOY A」というのは、そのまま「少年A」なのだった。
父親のようにやさしくみつめる男を前に、新しい名前を考える、と嬉しそうに笑う主人公は、つまりかつて「少年A」だったのだ。
24歳になった「少年A」は、その日ジャックと言う名前で、保護観察官のテリーに見守られながら、知らない町の気のいい女大家のフラットを借りて、職について、新しい人生をはじめる。
彼に戸惑いがあるとすれば、まわりが彼を10歳の少年ではなく、24歳の青年として当然に接してくることにだろう。「ちょっとした前科」はあるときいているが、そんなの関係ない。街にはそういう「ちょとした」悪が転がっていて、でも、みんな根は気のいいやつなんだから。
でも、ほんとうのジャックは、10歳の同級生の女の子を、友人と二人で「想像しうる限り」の残虐な行為で殺害した。悪魔の少年と街を震撼させた。
ジャックが保釈された日も、ゴシップ新聞には、少年の顔写真から作成した成長した青年のモンタージュが大きく載り、人々は「少年A」への恐怖と憎悪を忘れていない。本名だって容赦なく知れ渡っている。インターネットでは懸賞金までかけて彼を捜し出そうとしている者もいる。
彼が戻って来た世界はそういう場所だ。
でも、ジャックには、罪を後悔し、更生する権利がある。テリーはそういうかつての「少年A」が、新しい名前とともに、その世界で残りの人生を生き直す権利を守る自分の仕事に誇りをもっている。
ぜったいに、誰にも、自分の「正体」を明かしてはいけない。
テリーは言葉を濁しながら、それは君の身の安全の為だと言う。彼にはこれから愛され生きる権利がある。がその為には彼の「正体」は障害なのだ。
残酷な話だな。
ジャックを演じるアンドリュー・ガーフィールドは、天使のような男の子だ。この時はまだほぼ無名だったとおもうが、その後の『わたしを離さないで』のキーラ・ナイトレイと幼く愛し合う男の子で、『アメージング・スパイダーマン』のピーター・パーカーだといえば、すぐに「天使のような」はにかんだ笑顔がうかぶだろう。『Dr.パルナサスの鏡』でも、ヒース・レジャーのまわりを飛び跳ねていた。この子を「天使のような」と感じるのは、ボーギャルソンだからってわけじゃない。というかこのこ、美しいという印象が不安定だ。じーっと相手を(だから画面からこっちを)見つめる目は傷つけてしまいそうで不安になる。目をそらしても視線が追ってくるような薄気味悪さがある。触れちゃいけないもののようなやっかいさがある。奇妙な顔だ。そのへんが天使っぽいんだが、ジャックもまた、その目でじーっと相手を見つめる。困ったような泣き笑いのような、弱々しい目で。
だけど、彼にもともとあったのだろうか、成長とともに育ったんだろうか、ジャックがみせる正義や勇気、優しさに、そんな笑顔がだんだん魅力的に幸せに見えてくる。気の合う友達もできた。恋人もできた。信頼を受けた。それは人々の善意からではなく、ジャックという人物を好きになったから。それが映画からつたわってくる。ハルヒも、このままジャックとして明るい人生を生きて欲しい気がしている。
そんな人たちに出会ったから、そんな人たちに愛される自分を知ったから、ジャックはほんとうの自分を明かしたくなってしまう。彼らなら、彼女なら、それを受け止めてくれる。そういう人間関係を築きたい。
でも、テリーはそれは絶対にダメだと言う。「少年A」と呼ばれた彼はもうこの世には、いない。それは君じゃない。
結局、社会は「少年A」が生きる事を認めていないんだ。ハルヒたちは「少年A」を人間として抹消することを、赦す事、受け入れることだと思っているんじゃないだろうか。
でも、それだったら、「少年A」の手によって、この世からほんとうに抹消されてしまった人も、同じように生き直せなくちゃおかしい。そんなこと、だれにもできやしないのに。
ジャックになった彼はほんとうにいいこだった。でもハルヒは、「少年A」としての彼を赦す事も受け入れる事もきっとできないんだろうと思った。
いなかった事にするしかできないんだろうと思った。いくら「天使のような」アンドリュー・ガーフィールドであっても。
「少年A」の社会復帰を、想像上で、赦せる、受け入れるとは、言えない。理想と仮定しても、ハルヒは言えない。
そう、思っていたら、映画は、まったくその考えの先に導く事もなく、ちょっとありえないような、裏切られるような、ぽかんとした終わりかたをした。
ジャックが踏み出す先には、もうなにもない。
でも、それがハルヒにはふさわしい終わりかただったように思う。
ハルヒはその先を何も考えていないのだから。

「少年A」のもうひとり、「かわいそうなこども」フィリップをやっていたTaylor Dohertyという男の子にものすごく惹き付けられたのだけど、これといって日本語の情報が探せなくて、このあとのどうなったのかを追うのは難しそうだ。と思ったら、びっくりするよね、ちょうど3本1000円で買ってあった『ヒア アフター』に、でてるという。運命の出会い?『Mysterious Skin』で出あったジョゼフ・ゴードン=レヴィットのような!?と、ひとりもりあがったハルヒだったが、まあ、役名もなく、予想通り「少年A」というか「少年C」くらいな感じで出ていた。

 
  
『なにもこわいことはない』2013 日本
D:斎藤久志W: 加瀬仁美 A: 高尾祥子/吉岡睦雄/山田キヌヲ

斎藤監督は98年にやまだないとの(つまりハルヒ)『フレンチドレッシング』を撮った人。そのころハルヒは東京にいなかったんで、監督にあったのは、映画が出来上がって試写のときだったように思う。この映画を好きな人がたくさんいることはうれしい。
漫画は『フレンチドレッシング』って一編を含む、おんなじ女の子を主人公にした同名の短編集で、映画はその短編集からイメージした、新しい作品になっていた。脚本も監督で、ハルヒが初稿かなんかを見せてもらった時、なんか、やまだないとの漫画というよりも、別の人の漫画のイメージに近かったので、あ、監督あんま、やまだないと好きじゃねえんじゃねいの?とがっくりしたのだけれど(ハルヒは、おべんちゃらいってるふうになるのがやなんで、こういう余計なことをつい、言ってしまう。たぶん、言わなくても良い事だ)その後もちゃんとやまだないとのまんがをきにかけてくださってて、それはうれしかった。
ハルヒと似たような空気が好きな人なんだと思う。
それは(DVDを送ってくださった)この映画をみて、あー好きだなあ、とハルヒが思ったから。

久我山かどっかにすんでるらしい、夫婦ふたり暮らしの話だ。
小さな一戸建て…って程でもない2階建ての家にすんでいる。玄関を開けたらすぐ台所。ふたりでもちょっとせせこましいなってワゴンをテーブルにして、向かい合って座れない、何かを取るのに立ち上がると、背中にお尻がぶつかる、そんな食卓。ものも少ない。おそろいのお皿はふたり分しかなく、だからお客の分は柄が違う。そのむこうに寝室。ベッドはダブルなんか置けないのでセミダブル。狭い。階段は脚を右と左を互い違いにかけてのぼるようになっていて、2階はリビング兼夫の机。ソファーも小さくて、ふたりで並んで座るにはクッションをよける。それでも並んで座る。それから、小さいベランダ。いや、部屋のわりには広いかな。
ふたりは、独り言のような会話をする。または会話のようにだんまりですごす。
この映画にはモノローグがない。心の声が、情報をくれることはない。
たとえば、ふたりの関係にしても、仕事にしても、名前も友人関係も、家族の事も、何の説明もセリフの中にはない。映画の中で彼らの暮らしにつき合ってるうちにわかる範囲、普通に人とつき合っていて、わかる範囲。それ以上にこの映画がわかって欲しがってる様子はないし、それで、足り無い事はなにもない。
でも、妻は、宮沢賢治の童話を読むとき、それがひとりであっても、夫がいても、声に出して読む。
妻の心の声も、夫の心の声も、妻の両親の心の声も、ハルヒには聞こえない。
でも、妻は、そのかわりのように、宮沢賢治の言葉を声にする。その童話の中に「なにもこわいことはない」ということばがでてくる。
「なにもこわいことはない」そうだねえ、きっとそうなんだろう。でもハルヒは怖い。いろいろと、怖い。
それがなにかは、誰にも言わない。何を怖がっているのか、何に怯えているのかなんて、誰にも言わない。でも、たぶん、同じ事を怖いとおびえている人と、ハルヒは一緒に生きていると思っている。だから、何も言わなくていいんだと思っている。怯えたままでいいと思っている。
この夫婦もそうだと思う。
そんなものをものともしない人であったなら。(お互いに)
そしたら、たぶん、自分なんか置いてけぼりだ。(お互いに)
安心感というよりも、同じような不安を抱えてる。そんなふたりの話だった。

もし、やまだないとのまんがを好きな人がこの映画をみたら、ああと、重なる漫画があると思う。
監督が、『西荻夫婦』からインスパイアされたと言ってくれた。
『西荻夫婦』という漫画は、そのまんま、東京の西荻窪に暮らす夫婦の話。
何人かの監督や制作会社の人に、映画にしたいと話をもらったことがあったが、それは意味がないと、いつも断ってきた。
漫画の中の街で撮影したからと言って、漫画のシーンやエピソード、セリフを映像で見せたからと言って、それは、それだけにしかならないと思ったから。
だって、あれは、あの夫婦の話なんだから。あの夫婦の姿を見て、言葉に感じた人が映画を撮るとしたら、あの夫婦に重ねた誰かの姿、自分の言葉を撮ることになるんだから、それって『西荻夫婦』じゃなくていい。
そう思っていたから。

あなたの漫画を自分の手で映画にしたいといわれるより、あなたの漫画を読んでこの映画を撮ったと言われるほうがうれしい。うれしいにきまってる。

夫を演じているのはヨシオカムツオ。あ?なんかこの人、ハルヒ好きだ、と思ったら、堀禎一監督のピンク映画『草叢』『したがるかあさん』 の男の子だった。そう、好きなんだよね〜ハルヒ、この人。これといったとこがなにもないんだけど。
こもってかすれた気の優しそうな声がいい。ほら、やっぱ斎藤監督とハルヒは、似た空気を愛するんだよ。

監督が映画学校の俳優科の生徒達たちの卒業制作として撮った映画も、見せてもらえた。『スーパーローテーション』これもまた、好きな空気だった。『なにもこわいことはない』と同じ加瀬仁美って人の脚本。
ハルヒ、このひとって、言わせたくないことがある人なんだろうと思った。
ハルヒもそうだ。言わせたい事じゃなくて、言わせたくない事を大事にしてる。(いいことかわるいことかはしらない)

『なにもこわいことはない』は16日からユーロスペースでやるそうです。
http://kowaikotohanai.com/

 
 
 
 
ハルヒマヒネマ
http://blog.livedoor.jp/nuitlog/
最近のハルヒの頭の中、日々をささげる王子様観劇日記
http://bookman.co.jp/serial-novel/boyslife/boyslife/

 
 
 
-ヒビレポ 2013年11月15日号-

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